指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

デタッチメントとコミットメント。

 もうひとつ村上春樹さんのこれまでの経緯で解せないと思っていたことがあってそれはいわゆるデタッチメントとコミットメントの問題だ。個人的には村上さんのデタッチメント側の振る舞い方―割に強固な個人主義―に以前から共感してきた。でもどこかの時点で村上さんはデタッチメントから社会へのコミットメントの方向へ舵を切った。その動機がよくわからなくてずっと謎に思っていた。と同時にどちらかと言えば今もデタッチメント側に与するものとしてその変化をなんとなく残念にも思った。

(前略)僕はもともと、自慢ではないけれど、論理や解析に基づいて整合的に仕事を進めていくタイプではない。本能的に「これが正しい」と感じたことを、まわりの思惑とは無関係に、一人で夢中になってどんどん突っ込んで押し進めていってしまう。いちいち細かく他人に説明するよりは、自分の勘に従って、黙って前に進んでいく。多くの場合、「わかってもらえなければもらえないで、それでもかまわない。自分で勝手にやるから」という風に考えてしまう。説明する時間がもったいないと思ってしまう。だから、当然の成り行きとして、まわりの人々と摩擦を起こす場合もある。しかしこの時点で河合さんとめぐり合ったことによって、僕としても、いくぶんではあるけれど、「わかりあうというのは、理解を誰かと共有するというのは、人の心にとってわりに大事なことなんだ」と考えるようになった。この歳になって今更という感はあるにせよ、少し身を引いて考えるというところが、僕の中にも出てきたのかもしれない。
(後略)
村上春樹全作品1990~2000 7」解題より

 ちなみに引用部分の「河合さん」は河合隼雄さんのことだ。そうは書いてないけどここにデタッチメントからコミットメントへの転換が割にはっきりと描き出されているように読める。少なくとも自分さえよければそれでいいという考え方はこのあたりで改められたのかなという推測が成り立つ気がする。

(前略)しかし河合さんと出会うことによって、僕はより立体的で、よりクリアな展望を持って、より穏やかな顔つきで、前に進んでいけるようになった。そしてまた、時間はずいぶんかかるかもしれないけど、自分の世界観や方法を他人に伝えることは決して不可能ではないのだ、という気持ちを持つことができるようにもなった。自分の作品や方法について語ることがもともとあまり好きではないのだが、やはり場合に応じて、それなりに具体的に語っていくことも、作家としてのひとつの責務なのだろうと考えるようになった。それは今すぐにではなくても、どこかの地点で共感のようなものを生み出すことになるかもしれない。そして共感というのは、我々が生きていく上で欠くことのできないものなのだ。
(後略)
前掲書より

 ここから「村上春樹ライブラリー」まではほぼ一直線の道のりのように思える。個人的には確かに村上春樹ライブラリーという企画には初めから違和感を持っていた。そういうことをする人じゃないと思っていたからだ。でもそういうことをする人じゃないと思っていたと落胆するよりは作者自身が読者にとってよりオープンなスタンスを取り始めたことを喜ぶ方がずっと妥当な気がするしずっと重要な気がする。そのおかげで「村上RADIO」のコンテンツの一部やAuthors Aliveの村上さんの朗読が実現していると言っていいしあるいはこの解題そのものもまた作者のスタンスの変更によってもたらされたものと言えるかも知れないから。研究者のみならずファンにとってもこの解題はすごく貴重なものに思われる。これが読めて僕は本当に心からうれしい。