指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

誘惑、その後。

 バイト先の更衣室に入って着替え用のブースのカーテンが開け放たれてるのを目にする度にここで彼女が一糸まとわぬ姿で自分のことを待っていたんだということを思い出す。それはかなり生々しいイメージだ。少しだけ息が苦しくなる。でも他に仕方ないので同じ場所に入ってカーテンを閉めて着替える。それが日常へと着地する儀式だ。そうして少しずつ当初の生々しさは薄れて行く。今ではほとんど何も考えることなく着替えを済ませられるようになった。でももちろん何もかもが消えてなくなった訳ではない。疑問がひとついつまでも残り続ける。彼女は一体僕に何を求めていたんだろうか。鍵のかかってない更衣室はたとえ初めはふたりきりだったとしてもいつなんどき誰が入ってくるとも知れない。だからどんな形であれそこで愛に関する行為を行うというのは不可能だ。ハグとかキスとかを求めていたのなら裸になる必要なんてないだろう。それとも何かのお礼とかご褒美とかいうことで自分の裸を見せてくれようとしたんだろうか。その先どうなるかということは何一つ想定せずに。あるいはどうなろうと構わないと割り切って。でもそれは考えづらい気がする。当の彼女はそれ以来本当にまったく何事もなかったかのように一緒に仕事をしている。そういうことならこちらも何事もなかったかのように接するしかない。彼女の名誉のためには誰かにその話をするなんて思いもよらない。聞いたらみんな驚天動地なんじゃないかと思うけど。(家人にだけは話した。)でもこの謎はきっと永久に解けないに違いない。この件について直に彼女に尋ねるのは気を持たせる結果になりそうで恐い。自分にその気がない以上これ以上蒸し返すことはできない。そしてそのうち時の流れが解決してくれるのを待つしかない。それがいつになるかはわからない。わからないままその疑問のリアリティーが少しずつすり減って行くのを待っている。