指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

誘惑。

 バイト終わりの更衣室ではたいてい気もそぞろだ。早く帰って一杯やりたい。それから塾が始まるまでに少しでも長くうちで休みたい。だから話しかけて来る人がいても話が途切れるのをひたすら待っている。そして少しでも途切れようものなら失礼にならないようできるだけ自然にでもすかさずお先に失礼しますお疲れ様でしたと言って部屋を後にする。
 更衣室は男女兼用だ。入り口から入って手前半分が男性のエリア。奥半分が女性のエリア。だから奥まで男性が立ち入ることは(たぶん)ないし手前で女性が着替えることも少なくとも僕が知る限り一度もなかった。
 でもその日は手前の男性エリアにある天井からつるしたカーテンが病院のベッドのように180度閉まるブースに誰かが入っている。一瞬あれっと思う。その日のシフトの中で男性は僕だけだから。お疲れ様でーすとカーテン越しにとりあえず声をかけると聞き覚えのある声がお疲れ様ですと返ってくる。ついさっきまで一緒のシフトに入ってた彼女の声。続けてその声が出し抜けにこう言う。
 今あたし何も身につけてません。裸なんです。
 一瞬耳を疑う。でもとっさにできる解釈は何かの冗談だろうということだけだ。彼女は日頃からよく冗談を口にするし帰りがけに僕をからかってみようという気になったのかも知れない。二の句を継げずにいると彼女は続ける。
 ○○さん(僕のこと)、カーテン開けてみたりします?
 これで少し安心する。彼女は冗談を言っている。そんなの開けられる訳ないじゃん。少し気の利いた返しができないか瞬時に考える。そして思いつく。
 人の奥様にそんなことしませんよ。独身ならまだしも。
 相手が独身ならカーテン開けるんかい!的なつっこみを期待している。でも一瞬の間の後彼女は続ける。
 あたしがカーテン開けたら○○さんどうします?
 でもこの期に及んでも僕の頭はなまくらなままだ。相手の真意を測りかねている。それより一刻も早く帰りたいと思っている。でもさすがに返す言葉が見つからない。会話をもう一度冗談に仕立て直す方法も思いつかない。だから黙っている。すると彼女は続ける。
 でも○○さんには素敵な奥さんいますもんね。
 そして彼女は家人のことに話題を変える。内容からすると彼女は家人に好感を持ってるようだ。会話は安全な平原に無事着地したように見える。それで僕は今し方通り過ぎたばかりの危機のことを忘れる。しばしの間忘れる。
 それが頭蓋骨の内側を再びノックしたのは随分後塾で授業をしてるときのことだ。もしかしたら自分は相当きわどいことを彼女から言われたのかも知れないという突然の気づきがやって来る。彼女は結婚してるし僕の子供でもおかしくないほど若いしそもそも僕なんかに興味を持つはずがないという強固な思い込みを超えて彼女が力尽くでこちら側にやって来ようとしたのかも知れないという可能性に思い至る。
 僕は小さな二つの乳房と控えめにうつむく陰毛のかげりを持つ彼女の白い裸身を思い浮かべる。そしてひたとこちらを見つめる彼女の、恥じらうと言うよりは思い詰めた挑戦的なまなざしを。その体の動かしがたい存在感とそれを目にした自分に生ずるある種の罪悪感とを。彼女が僕にそこまで許してくれたという事実が呼び起こす親密な感じを。自分の欲望がどの程度大きくなるのかということを。その複雑で雑多な感情が一気に湧き起こる。もしあるレベル以上の暖かい親近感がそこにあったなら彼女を抱きしめなければならない。もしあるレベル以上の冷たく硬い罪の意識がそこにあったなら彼女に背を向けなければならない。そこまでは想像できる。でもどちらに転ぶかは本当に彼女の裸身を目にするまで僕にはわからない。僕は性的に彼女に惹かれたことが一度もない。と思う。それでも僕には断言することができない。こういう問題はそれくらい危ういものだと思う。
 でも現実的には僕が彼女を抱きしめることはないだろう。彼女の裸身を目にすることはないから。たぶん彼女が突然カーテンを開けたとしても僕は目を背けることになる。それにこういう誘惑にさらされるのは初めてという訳でもない。今までそれに負けたのは二十代の終わりの一度きりだけだ。そのときはつき合ってる彼女ももちろん妻もいなくてその後はその女性ときちんとおつき合いした。だから何一つやましいところはない。家人を裏切ったことも一度もない。ただこういうことがあると想像の中でいろんな可能性を検討してみることができる。本気でアプローチしてくれたのにお断りすることになり本当に申し訳ないんだけど僕はときどき彼女たちの姿を思い浮かべてみることがある。そしてほんの少し甘やかな気持ちになる。僕が手を伸ばしさえすれば彼女たちの体は僕を受け容れてくれていたはずだから。