指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

聞いてやれる親でよかった。

 子供は大学の専門課程である言語の習得に取り組んでいる。僕は結局英語ひとつまともに話せるようにならなかったので逆に言えば言語の習得がどれほど大変かということを身に沁みて知っている。今日の昼食のとき家人と一杯やってると子供が突然その言語のどういうところがどんな風に難しいかということを一生懸命説明し始めた。目的語をとる形容詞があると言う。でも英語にも目的語をとる形容詞がない訳ではない。だから英語にもあるじゃんたとえばsureとかと答えると正にそこを問題にしたかったらしくて要するに英語の文法的な解析を他の言語に当てはめることは不可能なんじゃないかというようなことを言う。あるいはそうすることによってかえって他言語の習得を難しくしてるんじゃないか。その根拠を説明してもらったんだけど英文法の知識が少しはあるおかげで言いたいことの類推はついた。それで自分の考えを言うと子供は理解してもらえたと思ったのか気が済んだようにうなずく。こういう話を聞いてやれる親で本当によかったとそのとき思った。もちろん誰にもわかってもらえないことというのは誰にでもあると思う。でもその量は多いよりも少ない方がいいに決まってる気がする。わかってもらえそうもないことを身近な人にわかってもらえたときの安心感を想像するとそれは生き続けて行くために必要な心のぬくもりみたいなものに直結しそうに思われる。親としてはそういうものをできるだけたくさん蓄積させておいてやりたい。いずれは吹きっさらしの荒涼とした場所にたったひとりで立ち尽くさなければならない。それはもう誰だっていつかはそこに立たねばならない。そのときにできるだけ多くの温かみを心の中に保っていて欲しい。うまく言えないけど大体そんなイメージで僕は子供を育ててきたことになると思う。