指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

ややこしい話。

 吉本隆明さんの「最後の親鸞」から引用する。

(前略)<知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。(後略)(引用者註:原文では「そのまま」に傍点が付されている。また原文は縦書き。)

 ここだけ読んでもなんのことだかわからないかも知れない。と言うかこの論文自体がまあまあ難解なものに思えるので何度読んでもどれだけのものを受け取れたのか我ながら甚だ心許ない。それにも関わらずこの論文がとても好きで若い頃から随分読み返している。知識というものに関してもしくは知というもののあり方に関してある意味で究極と言っていいことが書かれていると感じられるからだ。知を極めるとどこかで知を否定する方向に行くということ。知をそのまま野放図に肯定してはいけないということ。僕が感じ取り深く心に刻んだのはそういうことだ。個人的には知の「頂きを極め」たことなどないのでそこまで徹底できない我が身を忸怩たる思いで眺めている。でも何かを知識によって創り上げるということは必ずその何かを別の知識によって無に返すという課題を負っているということなのかなと思っている。<非知>とはあるひとつの<知>が引き起こした結果をなかったことにする手段なんじゃないかと。例えば原子力原子力を知によって利用するのであれば必ずいつか別の知によってそれを無化する手立てを考えておかなければならなかった。でも言うまでもなく誰もそんなことを考えてはいなかった。だから汚染水はたまり続け処理水は海へと流され続けている。IAEAが保証する通りそれは環境になんの影響も与えないのかも知れない。でも海に流さなければ流さない方がよかったということは議論の余地がないと思う。それに詳しくは知らないけどたぶん世界中の核保有国が核のごみの処分について対症療法以上の解決策をまだ見出していない。これは核利用という<知>が核処分という<非知>を初めに内包してなかったことによると見なすことができる。どんな<知>もその<知>の無化(なかったことにすること、その知以前の状態に復帰させることができること)を合わせ持っていなければならないのだ。吉本さんのおっしゃる<非知>に対するそれが僕なりの解釈になる。かなり若い頃からそういうことを考え続けてきたので知というのは基本的には胡散臭いものなんだというのが割に骨身に染みついていてそれが昨日のエントリを書く根拠になっている。オックスフォード大学ももちろん結構なんだけどその学生さんにしろおじさんバイトにしろそれに対する<非知>の部分が感じられない。諸手を挙げて賛美してるようにしか見えない。そういうのって危ういぜと僕なら思う。それが昨日の学生さんの話に違和感を抱いた根拠だ。お前に能力がないからひがんでるだけなんだろという気がしないでもないけどそれだけじゃないはずと今のところ信じている。