指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

日常という意味。

めぐらし屋 (新潮文庫)
現段階で書影が無いんでなんの本かおわかりになれないと思いますが、これは新潮文庫版、堀江敏幸さんの「めぐらし屋」です。
いつの頃からか日常ということが個人的に割と問題になっていた。具体的には日常の幅はどこからどこまで広がっているのか、とか、それを逸脱したときには非日常に突入することになるのか、とか、非日常と言ってもそれはやっぱり日常ではないのか、とか、そんなことだ。そんなことを考えながらも日常と非日常というそれぞれの言葉をきっちり対立するものとして扱ったりして自分でも雑で曖昧だなと思ったりした。今改めて考えてみると言葉としては日常と非日常は確かに対立しているけど、非日常なんて本当は存在しない、と言うか、非日常のことは考えなくてもよい、と言うか、すごくわかりにくい言い方しかできないけどそんな風なところにいると言うと、いちばん自分の実感に近い。あるいは日常とはある振幅の中に収まっている生活行動一般のことだけではなく、そこにいるときの心の状態も含み込んだ言葉のようにも思われている。この場合は日常に対立するのは非日常ではなく、異常という言葉に近い何かだ。そして文学を抜きにして自分の生活だけを思い浮かべるとき、この日常の幅に自分が収まっている限りは健全な判断ができるんじゃないかと考えている。逆に言うと健全な判断のためには自分を日常の幅に収めておくことが重要だと思われている。だから日常は自分にとって固執するだけの意味のある言葉だし、実際に自分は日常に固執している。なぜ文学を抜きにするかと言えば、文学は日常を越えて異常の方に突入して行かなければどうにもならないものだからだ。
「めぐらし屋」では主人公の父親が死ぬ。主人公は「あたたかい謎」であった父親の実像にやわらかな歩調で近づいて行く。ただそれだけの話だ。主人公の体の不調を描写するのに割かれるスペースが多い。それはすごく重要なことなんじゃないかと思われた。身体の異常は実は日常の一部であることが示唆されているように思われるからだ。すると前の段落で書いた「異常」という言葉で、自分は暗に心の異常のことを指していたことになる気がする。そしてその思い当たりはおそらく正しい。