指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

入手してから少し時の経った本を読んでいる。

 この前のイタロ・カルヴィーノの「魔法の庭」その前のコーマック・マッカーシーの「果樹園の守り手」と手に入れてから少し時の経った本を読んでいる。(「果樹園の守り手」は図書館で借りたものだけどすぐには読めずに結局貸出期間を一週間延長してもらってやっと読み終えた。)一時期は新刊書を買っては読み買っては読みしていたものだけど読書的な体力がめっきり落ちたこの頃は手に入れてもすぐには読めなくて少し経ってから重い腰を上げるように読むことが多い。昨日読み終えたのは村上春樹さんが訳されたトルーマン・カポーティの「遠い声、遠い部屋」でこれも買ってから三ヶ月ほど経っている。ところどころひどくわかりづらい読みにくい小説で正直難渋した。帯には「新鮮な言語感覚と華麗な文体でアメリカ文学界に衝撃を与え、熱い注目を浴びたカポーティのデビュー長編を村上春樹が新訳。」とある。ただ「新鮮な言語感覚と華麗な文体」というのは物語を停滞させてしまうんじゃないかという気がする。確かに今まで読んだことのないような思いがけない比喩や言い回しが出てきてハッとさせられたりする。そういうところは作者の想像力も語彙力もとても豊かなものに感じられる。ただ主人公ジョエルを作者自身の似姿と仮定するとそれらは豊かすぎてちょっとこれ見よがしなんじゃないかあるいはひとりで悦に入ってるだけなんじゃないかと思わされないでもない。個人的には時間が比較的スムーズに流れる(それだっていつぬかるみに足を取られるかわかったものじゃないんだけど)物語が展開する部分の方が好ましかった。特にジョエルが一風変わった女の子アイダベルとナマズを釣りに行くシーンはすごくよかった。陽射しとか風の肌触りとか空の色とか草の踏み心地とか水の冷たさとかそういうものがほんとに生き生き描かれていて自分もその場に立ってふたりの振る舞いを目の前にしているような気分になる。いつも強気に見えるアイダベルの女の子らしい弱さが垣間見られる一瞬も強く胸を打つ。せめてここら辺りで使われている文体で一冊書いてもらえたらなあと思う。でもラストに向かうにつれその文体の華麗さ―と言うか複雑さに翻弄されてただただ行を追うだけの作業に終始してしまったことも言い添えておく。まあでもそういうこともあるよね。たまにはね。次はこれも随分前に手に入れた平野啓一郎さんの「マチネの終わりに」を読むつもりでいる。(「今週のお題」向けに書いたんですけど書き終えたらお題がもう終わってました。ちゃんちゃん。)