指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

もうひとつの「スタークロスト・ラヴァーズ」。

 「スタークロスト・ラヴァーズ」という曲名が薄幸な恋人たちという意味でロミオとジュリエットのことを指すというのは村上春樹さんの「国境の南、太陽の西」で知った。この小説も正にスタークロスト・ラヴァーズのお話と言っていい。刊行されてから随分経つのでネタバレを気にせずにいろいろ書いても構わないのかも知れない。でもまあいつもの通り読んだことのある方にだけ伝わる(あるいは読んだことのある方にさえ伝わらない)判じ物めいた感想を書こうかと思う。読みながら何度か夏目漱石の文体に似てるなと思わされた。漱石を読むと線的な文の進みの中に立体的な心理の見取り図とでも呼べばいいものが詰め込まれてる印象を持つ。漱石ほどはっきりした形じゃないかも知れないけど似たような構造体が文の中に透けて見える気がした。それから言い切りの勢いのよさやある種の隠喩の使い方なども漱石を思わせる。この作者の作品は過去いくつかは読んでいる。でも随分前のことなのでこんな文体だったかなとちょっとだけ首を傾げた。もしかしたらこの作品のための文体なのかも知れない。ある頃以降の漱石の文体は複雑なことをできるだけ平明に表現する特性を持ってると思う。だからこの作品が扱っているひどく込み入った事情には漱石に似た文体が有効という判断なのかも知れない。まあもちろん文体の決定なんてそんなに簡単な話じゃないだろうけど個人的には読みやすい文体だと思った。あとは一箇所物語のかなり重要な節目でおいおいそりゃいくらなんでも無理なんじゃないのという展開があった。いくつかの偶然が積み重なり愛し合うふたりを引き裂こうとする一瞬の悪意がつけ込む隙間が現れる。リアリティーという点でこれでいいのかねと個人的にはちょっとひっかかった。その一箇所を除けば物語のダイナミズムも様々な登場人物の像の厚さも構成の複雑さももう申し分ない作品のように思われる。テーマのひとつである記憶についての考察も興味深い。音楽そのものを言葉に置き換える作業は随分難しいと思うけど無理がなく自然なものに感じられる。それとマチネの終わりのシーンじゃそりゃ泣かずにはいられないよね。という訳で結局泣いた。本を読んで泣くのは本当に久しぶりだ。未読の方は是非一度お手にとってみて下さい。ただしエリートのジャーナリストや才能豊かな音楽家キリスト教リルケの詩の話をしたりしてある種のスノビズム色は濃厚なのでそういうのが苦手な方にはお勧めできない。家人なんかは絶対に楽しめないと思う。それから人知れず抱えた自分のいちばん深い苦悩については愛する人にでもなかなか打ち明けづらいものなんだろうかとちょっと考えさせられた。僕なんかなんでも話しちゃうけどお前の抱く苦悩なんかたかが知れてるだろと言われるととりあえず言い返す言葉が見つからない。