指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

レイモンド・カーヴァーについてもう一度だけ。

 レイモンド・カーヴァーの作品は長い間近寄りがたいものに見えていた。初めて彼の作品を手にしたのはおそらく荻窪タウンセブンかルミネに入ってた八重洲ブックセンターでだったんじゃないかと思う。「夜になると鮭は・・・」の文庫版だった覚えがある。でもその本はおそらくうちにはないので立ち読みしただけで買わなかったのかも知れない。荻窪にいたということは僕は二十代のそれも前半だったと思う。今から四十年近く前の話だ。今アマゾンで調べたらこの本の刊行は1988年1月1日ということで三十六年前ということになる。だとすると僕は二十四歳だった。それからも折に触れてカーヴァーを読もうとして来た。でもその度にはじき返され続けた。それが急変したのは「村上春樹雑文集」という本を読んだのがきっかけだった。2011年のことだとこのブログの古いエントリに記録されている。その本に触発されてスコット・フィッツジェラルドカズオ・イシグロをおそらく手に入る限り読みその後にカーヴァーに白羽の矢を立てたということだ。と言われてみると確かにそんな覚えがある。図書館で借りた確かターンブルという人のフィッツジェラルド伝を仙台に出張したとき待ち時間の間に読んだ。それから四、五日後に東日本大震災が起きた。
 イシグロを全部読んでしまうとそのままの勢いで新書版のカーヴァー全集を片っ端から読んで行った。頭でわかろうとしなくていいんだという意味のことを当時書いてる。カーヴァー・カントリーの中にただ入って行けばいいんだ。それほどその世界は独特なんだからと。なるほどひとつの考え方ではある。それであれだけ読むのに苦心してきたカーヴァーがずんずん読み進められるようになったんだから物事は考え方ひとつでどうにでもなるということかも知れない。ところでここでひとつ疑問なのはこの「Carver's Dozen」をいつ読んだのかということだ。単行本の刊行は1994年12月7日。たぶんすぐに買ったと思うんだけどその頃はまだカーヴァーを読むことができなかった。カーヴァーを読めるようになるには先ほども触れた通り2011年を待たなければならなかったので二十年近く読まれないままほっとかれていたのかも知れない。それともこの本だけは例外的に読めたんだろうか。全然覚えてない。村上さんの訳者あとがきも情感にあふれてて必読。
 今日のスイムは授業の後。千メートルを26分9秒と絶不調。明日は夏期講習に応募の生徒さんがひとりもいなかった日なのでバイトの後ちょっと休めると思ったけど人手が足りないとのことでバイトを延ばす。その上塾の後も一時間バイトに入る。働けど働けど。