- 作者: ポール・オースター,柴田元幸
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2005/06/29
- メディア: 単行本
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ただ、これは個人的な好みに過ぎないかも知れないんだけど、ホルヘ・ルイス・ボルヘスのアンソロジー、たとえば「天国・地獄百科」よりも「砂の本」の方がおもしろく読めるように、この本よりもオースター自身が書いた本の方がずっとおもしろく感じられる。第一に僕はボルヘスやオースターの手になる作品が好きなのであって、ボルヘスやオースターが重要だと見なしていることに自分も興味を惹かれるかどうかはまるで別問題であること、第二にこれは同じことを別の言い方で言うに過ぎないが、アンソロジーでは、作品の隅々にまで作者が瀰漫している感じがどうしても薄くなること、の二点が主な理由だと思われる。でもこれ以上突き詰めると刃が僕自身に向かってくることになるので、この辺でやめときます。
とにかくそんな本を読んでいるうち、自分にも不思議な偶然(イコール必然)が起きていないかと考えて、昨日の記事を書いた。
昨年か一昨年か読売新聞の「こどもの詩」という欄に、自分の誕生日は少し前から同時多発テロの日になってしまった、という意味の詩が載っていた。これを読んですごく感銘を受けた。僕の誕生日も9月11日だからだ。確かにあの日以来、自分の誕生日という意味は、同時多発テロの日という意味に、深いところまで丸ごと飲み込まれてしまった。
でも確率から言うと、365人にひとりは僕と同じ経験をしている計算になると思う。まあ生まれてくる赤ちゃんの数は季節とかによって多少ばらつきはあるかも知れないけど、大雑把に言って。すると今電卓で計算してみたところ、日本だけで30万人以上の人々が同じ思いを共有していることになる。この数が多いか少ないかはさておき、決して特殊と言えるほど少ないわけでないことは明らかだ。もちろんだからと言って、誕生日が別の意味に塗り替えられた無念さがきれいさっぱり消える去るわけではないけど、9月11日生まれの方、負けずにがんばって行きましょう、あなたには結構たくさんの同士がいるのですから、と呼びかける根拠くらいにはなる気がする。
ちなみに家人の誕生日はアメリカの独立記念日で、二人合わせるとアメリカの歴史になにがしかの関係がありそうに思える。でも何も関係ない。因縁も必然もない。「もしも」も「あるいは」もない。