- 作者: 吉村萬壱
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2005/08/03
- メディア: 文庫
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その世界の限界についても僕はぼんやりと気づかされている。僕の感覚器官は万能ではない。また僕の判断力も万能ではない。僕の分析はある境から向こうへは行けないし、僕の知識はとてもとても限られたわずかなものだ。それが僕の世界の限界をかたちづくっている。あまりに微細なこと逆にあまりに規模が大きすぎることに対しては、僕の情緒はついて行くことができない。努力で少しずつは近づいて行けるかも知れないが、それは漸近線のように決して最後の隙間を埋めることができない。そのことは先験的に明らかだ。
「クチュクチュバーン」に収録された三編のテーマが何かと考える。いずれも絶望的な極限状況が描かれている。表題作では原因不明の疫病もしくは人類の進化によって、人間は人間でない何かになって行く。二作目では宇宙人が地球上の人間を殺しまくり、生き残った者の数はわずかだ。三作目では突然空から飛来したおびただしい数の卵の中から、人間を食料にする生き物が孵り地上にあふれる。三編とも同じテーマのバリエーションに思える。
そこでは当初あったはずの情緒の世界が圧倒的な力で押しつぶされる。押しつぶされても人間は世界を情緒を介して見ようとし続ける。たとえば希望を抱く。失敗して絶望する。また希望を抱く。でもここではすべての希望は必ずつぶされる。ひとつのこらず徹底的につぶされる。死ぬか情緒の世界を見捨てて無感覚になるかの選択肢しかそこには残されていない。実際人間らしい情緒を放棄した者は長く生き残ることになる。でも彼らも結局は死ぬ。人間であることを放棄することすらここではひとつの希望になってしまい、希望である以上それはつぶされねばならないからだ。
この世界に放り込まれても僕は僕の情緒の世界を保っていられるだろうか。おそらく駄目だろう。でも完全な終末を迎える前に何か手を思いつくかも知れない。そしてそのことによって僕もまたつぶされてしまうだろう。