指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

音楽を文章にする。

意味がなければスイングはない

意味がなければスイングはない

村上春樹さんの音楽家たちをめぐるエッセイだ。村上さんの音楽に対する造詣の深さはその作品を愛好しているだけで充分に感じ取れるけど、それを文章にする手並みも見事だと思う。ここに取り上げられているほとんどすべての音楽を僕は聴いたことがないんだけど、それでもものすごくおもしろく読めた。それは話を展開する地平が広過ぎもせず狭過ぎもせずにちょうど話の身丈に合っていて、一編一編が茫漠とせずかと言って細か過ぎもしないバランスの良さのせいだと思う。適切なスケールでありスピードであり温度なのだ。温度を支えているのはもちろん村上さんの音楽への情熱なんだけど、これも上滑りしているところが一ヶ所もないように思われる(当たり前か。)。
でもそれにしたって音楽を文章にするのは大変な作業だ。そこで多くの場合様々な他の音楽家(あるいは広く芸術家)との対比が導入される。音楽を語る言葉はそのことを通して立体的になり、よりふくらみと奥行きを持つ。大筋での位置関係がつかめてしまえば、村上さんの言葉を理解することがとても容易になる。たとえ取り上げられた音楽をまったく聴いたことがなくても、少なくとも言葉の上では村上さんの描く像を受け止めることができ、それで充分に楽しめる。 ブルース・スプリングスティーンレイモンド・カーヴァービーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」とビートルズの「サージェント・ペパーズ」、ゼルキンルービンシュタイン。対比のない、たとえばスガシカオについての項などでは、話がリニアになりそうなところをいくつかのエピソードを配した上で曲の(と言うか歌詞の)分析に入って行ってそれはそれで興味が逸らされない。ちなみにそこではスガシカオの文体がテーマになる。おもしろそうだよね。
しかし何でもそうだけど音楽もやっぱり繰り返し聴き込まないと滋味が味わえないのだろう。それほど聴き込んだCDが僕には一枚だってあるだろうか。そう言えば「大公トリオ」も買ったきり一度しか聴いてないんだったなあ。