指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

「シュガーな俺」、言葉でできた医療。

シュガーな俺

シュガーな俺

CTスキャンMRI、血液検査や尿検査の数値化などにより医療は随分可視的になってきたようなイメージがある。子供が胎内にいたときにはその姿をかなり鮮明に映した画像を見せられて驚いた。技術はそれより進歩していて、今では3D画像のような緻密さで胎児を映すことができるらしい。
でもそうしたイメージとは裏腹に、いったん医療の現場に患者として取り込まれると僕たちはただ医師や看護師の言葉だけに囲まれるようになる。これは「シュガーな俺」でも同じ事態になっているし体験からしてもそうだ。どんな画像もどんな検査結果も医師や看護師の解釈した言葉に翻訳されなければ、あるいは自分で本なり何なりで得た知識に照らし合わせなければほとんど意味をなさないからだ。これは医療が高度な専門的知識に支えられていることに拠っている。
医療が実際には言葉でできているということは何を意味するか。さしあたってここでは受け取る側によってリアリティーがまるで違ってしまうことが起こりうる、ということを意味すると答えれば充分だ。作中で糖尿病に関する同じレクチャーを受けながら、患者によってまるで理解度が違うとされているシーンは、言葉を受け取る側のリアリティーに大きな差があることからも幾分かは来ていると思われる(むろん頭の善し悪しも含むかも知れないが。)。
でも主人公は小説を書いていたりするだけあって鋭敏で、医療からの言葉を誰よりもリアルに受け止める。このリアルな受け止め方が作品に打たれた定点だ。言葉である以上それは真摯に受け止めなければならない、という倫理がそこに表れている。
でもその倫理は世界の側からふたつのやり方で危機にさらされる。ひとつは倫理の度が過ぎて凝り固まり周囲の人がついて行けなくなる事態によって、もうひとつは倫理を自分の体が裏切り始めることによって。前者はあるハプニングが救ってくれるわけだが私見では問題自体が真正面から解決されているとは思えなかった。ただこの問題は別に真正面から解決する必要は少しもないかも知れない。同じ問題を誰もが生活の中でとりあえずやり過ごしているだけとも言えば言えるからだ。後者を救うのは医療からの新たな言葉だ。それらふたつの救いの手によって、主人公は言葉に対する倫理をうまくシフトさせ静かで明るい心の状態へ入って行くことになっている。
めでたしめでたしと言っていいのかも知れないが、個人的には結末にかすかな居心地の悪さを感じた。それは作者が無意識に感知している医療の言葉に対する閉塞感が、物語の中にどうしても姿を表さずにはいられなかったことによっている気がした。もちろん医療の言葉の外に出るというのが具体的に何を指すか僕には想像すらできないが、なるほど医療の現場で僕たちは常に医療の言葉の中に閉じこめられている。本作を読んで初めてそのことを意識することができた。