指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

タカハシさん版「日本近代文学の起源」。

ニッポンの小説―百年の孤独

ニッポンの小説―百年の孤独

柄谷行人さんの「日本近代文学の起源」を読んだのはもう随分前のことだ。足下を快くすくわれた気がして三回くらい繰り返して読んだ。具体的な内容はほとんど憶えていない。ただその足下をすくうすくい方の快さだけをよく憶えている。
「ニッポンの小説 百年の孤独」を読みながら何度も柄谷さんの前掲書を思い出したのは、だからテーマと言うより(テーマだって似てるかも知れないけど。)足下をすくわれる感触が似ていたせいだと思う。こんな大雑把な言い方では何も言ったことにならないかも知れないけど。
逆に両者の違いを挙げると、前者が比較的「近代」にウェイトを置いているのに対し、後者は「文学」にウェイトを置いていることだと思われる。その差がそれぞれの文体のスピード感の違いをつくり出している。
前者にとって「近代」はとりあえず筆者なりに解決のついている何かだ。もちろんそれについて今後筆者の考えが一層深まりを見せることはあり得る。でも少なくともこの本を書いている間、筆者と「近代」という言葉とは束の間の休戦協定を結んでいた、そう見なしてよいほどに筆者の「近代」に対するイメージは本の中で一定している気がする。むしろ筆者の願望は、すでに自分なりに固定された「近代」のイメージをできるだけ厳密に再現したいことにあるように思われる。そしてその思いが、作品の叙述に緊張したスピード感を与えている。
後者はそういう焦りのような緊張したスピード感とは無縁だ。筆者は「文学」あるいは「小説」という言葉に対し、予め用意した解答を持っていない。だから読者をできるだけ早く自らの結論に導きたいという願望がない。筆者の記述のスピードは筆者の思考のスピードとほとんど一致している。だからたとえ道に迷って繰り返し似たような風景に舞い戻ってしまっても、それがとりあえずの限界だと見なされ決して無理に先を急ぐことはなされない。それが文体のスピードを緩め、文体の堅苦しさをほぐすことになっている。タカハシさん節はいつでもそんな特徴を持っている気がする。
とは言え、一度読んだだけでは取りこぼしも多いように思われる。近くもう一度読もうと思っている。