指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

思想の断片が向かうところ。

思想のアンソロジー

思想のアンソロジー

僕の好きな吉本さんの本に「増補・最後の親鸞」がある。今度の「思想のアンソロジー」を読みながらその一節を繰り返し思い出した。
(前略)最後の親鸞にとって、最後の親鸞は必然そのものだが、他者にとっては、遠い道程を歩いてきた者が、大団円に近づいたとき吐き出した唇の動きのように微かな思想かもしれない。(後略)(原文は縦書きです。)
筆者は親鸞の思想が辿り着いた最後の姿にとても関心を持っている。それを見出すには弟子の唯円がまとめたとされる「歎異抄」に当たるのが一番いいと思われるが、「歎異抄」に本当にその姿が封じ込められているかどうかは疑わしい。その理由のひとつを挙げたのが引用部だ。最後の親鸞が発する言葉は親鸞という物語を生きて来た親鸞自身にとっては必然だが、親鸞の物語を生きていない他者にはたとえ弟子であろうとも伝わらないかも知れない、ということが言われている。そのため筆者は親鸞の思想の物語を必要な分だけ再構成しそれを発射台のように使ってある一定のスピードと角度とをつくり出し、そのスピードと角度を保ったままで「歎異抄」に当たるという方法をとっている。まっとうで、説得力がある。
「思想のアンソロジー」自体が最後の吉本さんの姿を伝える、本人にとっての必然の書になっているのではないかと感じられたことが、先の引用部を繰り返し思い出した理由だ。吉本さんの関心の在処はこんなところにあったのか、と何度も驚かされた。それは筆者が思うさま自由に対象を選び、リラックスしてもしかしたら愉しみながら解説して行ったため、これまでと同じ対象が選ばれていても解説の下から突き出すように吉本さんの生の息づかいが感じられることに拠っている気がする。またとりあえず思いつくままを書き留めておけば、ここで自らが結論を出さずとも後世に資する部分があるかも知れないという考えもあるように思われた。
個人的に自分の興味に引きつけて興味深く読んだのは、「歎異抄」、「一言放談」、千石イエス藤田まこと、「源氏物語玉の小櫛」、漱石の「文学論(序)」などについてだった。特に本居宣長に関しては目の鱗が落ちる思いがした。