指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

リーダビリティーということについて。

走ることについて語るときに僕の語ること

走ることについて語るときに僕の語ること

リーダビリティーという言葉を最近たまに目にする。Yahooの英和辞書で調べるとreadableというのは読みやすいとか読んで面白いとかいう訳語になるらしい。だからおそらくリーダビリティーとは読みやすさということになると思う。
たとえば村上春樹さんのこの新刊は僕にとって非常にリーダビリティーが高かった、とこういう使い方でいいのだろうか。こんな読みやすい本を読んだのは生まれて初めてのような気がした。そこには村上さんの小説作品ほどではないにせよ起伏に富んだ物語が用意されていて興味を逸らされないし、文体はコンパクトでどういうことを指し示しているかわからないということがまるでなかった。エッセイでは断片的にしか伺い知れない村上さんの本音がまとめて聞けたような気もするし、逆にいくつかの村上さん像が立ち上がってしまいそれぞれがそれなりにリアルなので、どれを採ればいいのかわからなくなった挙げ句何重かにブレた像が残ったりもした。その原因の多くは僕の読解能力の弱さにあると思うけど、幾分か村上さん自身がそれを許容しているようにも思えた。いずれにせよあまり自分をさらけ出すことのない著者をより近く感じられるという点で一ファンにとっては至福に近い一冊となった。
短編集「中国行きのスロウ・ボート」は好きで何度読み返したかわからない。でもあるときから表題作の最後の方が感傷的、あるいは書き過ぎに思えるようになった。でもその感傷的、書き過ぎの部分がすごく好きだった。もちろんその部分はクノプフから出た「象の消滅」に再録されたときにかなり書き換えられてしまった。作品としては確かに「象の消滅」バージョンの方が収まりがいいかも知れない。でも僕はオリジナルバージョンの方が好きだ。誰が何と言おうとその書き過ぎの部分が好きなのだ。
今度の新刊には「中国行きのスロウ・ボート」と同じような感傷的書き過ぎが久しぶりに顔をのぞかせている気がする。何もしないと太って行く体質だと著者は本書で言っているが、それと同じように何もしないと書き過ぎる体質を村上さんはお持ちなのではないだろうか。
ところで以上を踏まえた上でのリーダビリティーの話なんだけど、この本は僕にとってすごくリーダビリティーが高いと書いた。でもあなたにとってはどうだろう?あるいはあなたがリーダビリティーが高いと判断した本を僕が読んだらどうなのだろう。リーダビリティーというのは主観を超えて広がり得るような有効で強い概念なのだろうか。誰にとっても読みやすい本というのがこの世に存在するのか?