指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

困難な話体。

今日から始まった本当に小さなイベントで、希望者にレクチャーをすることになった。僕がいないときには他のスタッフでも同じことができるようにマニュアルをつくった。そのまま読み上げれば誰にも同じレクチャーができるマニュアルだ。
そのまま読み上げてもらうためにマニュアルはできる限り話体で書いた。書いている途中で、話体というのは本当に難しいなとつくづく思い知らされた。たとえば自分が文体を問題にするとき、要はその文章が信頼するに値するか否かということが問題にされる訳だが、話体ではそういうことを判断する基準がまるで違っている。文体として見れば冗長だったり、端折りすぎだったりする部分が、話体ではほどよく効果を上げ文章としての信頼度を上げるということがあり得る。そこまで考慮に入れて予め話体の原稿を用意するのは正直手に余った。実際のレクチャーでも、原稿のあちこちで付け加えたり割愛したりという作業が必要となった。早い話が、偉そうに話体とか言ってわざわざ文体を変えて書いた意味があまり無かった訳だ。
吉本隆明さんは話体の最たるものとして太宰治の作品群を挙げ、それに連なるのが村上龍さんだと言っていたと思う。でもこれはその時点(それが書かれた時点)でという保留をつけた方がいい気がする。話体というのはスタティックなものではなく常に更新され改変されていると考えるのが妥当だからだ。話体の新鮮さで言えば橋本治さんの「ジョシコォコォセイ語」には太宰も村上さんもちょっとかなわないと思うし、その点では高橋源一郎さんも橋本さん側に立っていると思われる。大げさに言えば橋本さんも高橋さんも現代版言文一致に自覚的に取り組んでいることになるが、現代版言文一致に自覚的に取り組むのに必要なのは身も蓋もなく若さなのではないだろうか。だから、今いい感じの舞城王太郎さんも、よほど努力をしない限り十年後には少なくとも話体という観点からは古くなると思われる。ちなみに話体という用語は、ATOKのデフォルトの辞書には入っていなかった。