指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

それは、なんだって構わない。

LOVE 古川日出男著 「LOVE」
いきなり引用。帯に記された高橋源一郎さんの言葉。

古川日出男は、我々の足元に広がる(でも、衰弱した我々には感じることのできない)「もう一つの世界」の匂いを嗅ぎ、その音を聴き、見つめることができる。ちょうど、野良猫がそうであるように。それは、なんとも新鮮で、複雑で、神話的で、ええい、「すべて」がある世界なんだ。

例によって本を読む前にはその帯の言葉さえなるべく視界からはずすようにしていたので、これを読んだのも作品を読み終えた後だった。さすが、と思った。
これほど密度が高くて的確な言葉は書けるはずもないけど、自分なりに今回古川さんの小説について言ってみたいことがある。今までかすかに感じながらうまく言葉にすることができなかったそれは、即興のように語る行為の結果として物語があるんじゃないかということだ。多くの作品では語られた物語がすべてで、それが一番重要なものと作者によって思いなされている気がする。でも古川さんには語られた物語よりも語る行為そのものが持つダイナミズムの方が重要と思われている。そういう風に受け取ると古川さんの作品の勢いとそれがもたらすすごく独特でちょっと不思議な感じを自分なりにうまく腹に収められる気がする。たとえば固有名詞。首都高の名前や地域の名前が頻出するけど、それは本当は別になんだって構わないんじゃないだろうか。なんであろうがどこであろうが構わないからこそ、作品に書かれたそれやそこでも構わない訳だ。そういう意味では言葉の選択が非常に恣意的で、恣意的であることが普遍性を指し示すようなすごく独特な文体が使われているように思われる。古川さんにかかれば、たとえば三題噺なんかも勢いのある文体でしかもすごく複雑な物語として語られるに違いない。
もうひとつ、これは同じことを別な言い方で言うだけに過ぎないかも知れないけど、言葉がその言葉に対応する現実の一部を指し示すことを、古川さんはあまり信じていないか、どうでもよいと考えているか、そのどちらかのように思われた。語り手が何度も顔を出してこれは物語なんだと繰り返し読者に喚起を促すとき、語り手が語る物語は言葉のみによって成り立つものであり、その向こうには現実的な照応物が何も無いかのように思いなされて来る。
カンガルーでもいるかでもかいつぶりでも別に構わないこと、語りが騙りであること。以上のそれぞれから、個人的には自分になじみのあるふたりの作家を思い浮かべることができる。