指栞(ゆびしおり)

すまじきものは宮仕え。

青春小説とは何か。

武士道シックスティーン (文春文庫)
人から借りて読んでちょっと前に返してしまったので手元に無く、記憶だけで書くしかない。でもとにかくとてもおもしろかった。個人的には「青春小説」という言葉をほとんど気にしないでここまで来た。好きな作家でもいわゆる「青春小説」を書いている場合があるが、それは自分にとって「青春小説」であることよりもその作家の作品であることの方がずっと重要だ。そのためにだんだんと「青春小説」という呼び方が自分の中で意味をなさなくなって行ったと思われる。でもこの作品を読んで初めて、「青春小説」とはこういう作品を言うのか、と思えるような実質に出会ったような気がした。
その条件を挙げると、当然のように登場人物たちが青春と呼ばれる時間を生きていること、それから思春期特有の自意識のあり方や悩みなどを含んでいてストーリーがおもしろいこと、もうひとつ、これは思いつきに近いが語りが一人称であること、の三つになるように思われる。少なくともそれだけあれば相当に上質な「青春小説」が書ける気がする。
一人称が必要なのは、そうすればそれほど力強い文体はいらなくなるからだ。上記三つの条件を備えていてしかも文体が力強かったとすると、おそらくその作品は「青春小説」の枠を越えてどこか別のカテゴリーに行ってしまう。「青春小説」である以上に何か他のものだと言うしかなくなる。たとえば「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のような作品をそうした例として思い浮かべている。でも文体に個性や癖をあまり出さず、語り手にどこにでもいる男の子や女の子の感じを与えている限り、それは「青春小説」であり続けることができる。そのためには個性的だったり、強かったりする文体はかえって邪魔なのだ。
そういう作品が与える最大の効果は何か。それは読者を青春という時間に引き戻すことだ。個別では異なっていてももう少し大きなレベルでは案外普遍的な思春期に、読者を引きずり戻して同じ時間を共有させること。優れた「青春小説」というものがあるとすれば、そういうことができる作品を指すことになると思われる。