指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

今さらながら。

村上春樹雑文集」でフィッツジェラルドについで読みたくなったのがカズオ・イシグロだった。とりあえずいちばん有名な作品はこれかなと思って図書館で借りた。すごくおもしろくてすごく切ない。これは本当に執事をしていた人の手記が元になっているんじゃないかと思わせるほど細かいところまでよく手が行き届いている。それがこの作品のおもしろさを支えている。では切なさを支えているのは何かと言うと、それは主人公が持つ職業倫理だ。もう本当に芸術家のものかと思われるほど隅々まで考え尽くされ、しかも独自の美意識に貫かれた倫理だ。執事の美意識。そういう風に言うと確かにそういうものは存在する気がする。ある種の美意識が無ければできない仕事だと思われるからだ。でもこれほどまでに透徹したものだとはこの本を読むまで想像もつかなかった。
それだけの美意識を貫くことにはもちろんたくさんの障害がある。それらを主人公はひとつひとつ解決して行く。あるいは解消して行く。その姿は彼に鉄の男のような冷徹な印象を与えかねない。でも本当はそうではない。たとえば父親が亡くなったとき、あるいは愛し合っている女性が愛し合いながらも他の男と結婚することを告白したとき。そのとき彼の職務遂行には乱れが生じ、内心の動揺が身体に表れる。強い意志の下に繊細で生き生きした心の温かみが感じられる。でもそうした乱れや動揺は本当にわずかなものでしかない。そしてそれを本当にわずかなもので済ませられたことで、彼は大きな勝利感すら感じる。愛する女性を永遠に失った直後だと言うのに。
さらに彼の倫理は、仕えている主人さえ解体しようかという過激さを見せるけど、どれだけ過激になろうとももう彼の手に残っているのは自分一流の倫理だけだ。それだけしか無い。他のすべてを失っているのだ。胸を締め付けられそうなほどの切なさがそこにはある。でもそれを皮肉なユーモアで味付けしたラストは見事な気がした。もっともそれは救いとはほど遠いものだけど。