指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

冗長という手法。

充たされざる者 (ハヤカワepi文庫) カズオ・イシグロ著 古賀林幸訳 「充たされざる者
ハヤカワepi文庫で多少文字が大きく行間が広めにとってあるにしても九百ページ超はやっぱり長い小説ということになると思う。しかもいわゆるリアリズムでは書かれていない。「わたしを離さないで」の設定がどれほどSFっぽかったとしても、あるいはそれだからこそ逆にそこではリアリズムに近い文体が使われていた。「日の名残り」の文体もそうだった。でも「充たされざる者」の文体は特殊でとても実験的なように思われた。夢のようなという言い方があるけどこの作品の文体はもっと積極的に夢の再現を目指している気がする。
たとえば語り手はしばしば他の登場人物の発言から何か自分にとっての大切なことを思い出したり、現状についての新たな情報を得たりしている、と書くとそれって別に普通の日常であって全然夢じゃないじゃん、ということになるんだけどちょっと違う。語り手は明らかにそれまで知らなかったことを思い出したり、新たな情報の背景に実は記憶が結びついているのを発見したりしているふしがある。要するに語り手は他人の発言に合わせて記憶を捏造しているのだ。これは少なくとも自分の体験では覚醒しているときには起こらないことで起こりうるとしたら夢の中でだけだ。
もうひとつ語り手は目下の課題を遂行しようとしながらそれとは無関係の目の前に出来する事件のひとつひとつにかかずらわり過ぎている。その際目下の課題のことは目の前の事件がひと段落するまで見過ごされている。これも個人的には夢の中で起こりがちなもののように思われる。何か大きな衝撃があるとそれまでの文脈が失われてしまう、ということが自分の夢では起こる。
これら夢の感触を通奏低音のように支えているのが時間の観念の喪失だ。確かに朝日は昇りそれはやがて夕日になって夜は来る。でもそれらの時間はどう見ても不自然にあるいは恣意的に引き延ばされている。建物の中と外とでは時間帯が異なっているかのような不思議な事態も起きている。そして時間を喪失させているのが登場人物の長広舌や語り手自身の行動の描写だ。それらは明らかに長過ぎる上に細か過ぎる。語り手はそれらに迂回させられ行き着いた先でもまた新たな迂回が用意され果てしなく踏み外して行く。かと思うと空間が不思議な形でつながり信じられないようなショートカットが開かれるときもある。ただしこのショートカットもまた夢の世界のものだ。
語り手に感情移入すればその迂回に次ぐ迂回に相当うんざりさせられることも確かだ。夢であればそれは悪夢だ。でもその悪夢の感触を再現することが作者の意図であるなら、この作品の冗長さは作者の計算による手法のひとつということになるだろう。その証拠にどんなにうんざりさせられても先を読み続けない訳には行かないほどこの作品はおもしろい。
以下は備忘だが、語り手から物理的に遠く離れてもまだ語り手の目を通して語り続ける次元が存在すること(それは本来記憶を語るときにしかあり得ないのに現在進行形で語られている。)、親と折り合いが良くない登場人物たちが混じり合ってしまうくらいに似ていること、などまだまだこの作品には不思議がある。