指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

「僕」からほんの少し離れて。

 他の人々がどのように読んでいるのかはよくわからないけど個人的には村上さんの書く「僕」に対して共感したり自分を重ね合わせたりしながらもう三十年以上その作品を読んできたと思う。これは短編でも長編でも変わらない。「僕」と自分との間にどのような共通点があるかということはひとまず置いといてなんとなくいつでも「僕」と自分とが同一視されていた。それは見方によっては安易な読み方なんじゃないかということに最近になってやっと気づいた。きっかけはこの前「ノルウェイの森」を読み返したことだ。何度読み返したかわからないこの作品の主人公ワタナベに、今回は初めて共感することができなかったしまた共感する必要もないんじゃないかという気がした。僕にはささやかなりとも理想とする自分の像があってワタナベはそれとはかけ離れているように感じられたからだ。そしてそうなってみると「僕」イコール自分という等式が無意識に大きなバイアスをかけられたゆがんだ構図のように思われて来た。むしろ「僕」から自分をその都度引きはがし引きはがししながら読むことが少なくともこれからの自分の読み方であるべきだった。そしてそんな風にして相変わらず時系列で「ダンス・ダンス・ダンス」、「国境の南、太陽の西」と読み進めて来た。「ダンス・ダンス・ダンス」は村上さんの長編ではいちばん好きな作品だと長い間思ってきたし確かにこれほどあからさまなハッピー・エンドの作品は他にないような気もするけど感想がうまくまとまらないのでいつかまた触れられたら触れたい。そして新しい読み方にものの見事に引っかかったのが「国境の南、太陽の西」だった。これも何回かは読み返していると思うけど主人公がこれほど身勝手で嫌なやつだということに今まで一度も気づかなかった。確かに自分は嫌なやつだという意味のことを冒頭近くで自ら告白してる訳なんだけど個人的にはずっと主人公に自分を重ね合わせて読む読み方をやめられなかった。でも「僕」は平気で誰かを傷つけうる存在として描かれていることは明白だ。それはより先鋭化したワタナベの姿と言えるかも知れない。
 でもその人物像は作者に独特のひとつの考え方に支えられている。それは、幼い頃の恋は、大人になってからの恋よりも、はるかに強固な絆を持ちうるという考え方だ。その考えが初めて姿を現すのは「ノルウェイの森」のキズキと直子のケースで恋人だったふたりは幼い頃から仲がよかった。キズキの謎の自殺に傷つく直子の姿はふたりが通常以上の絆で結ばれていたような印象を与える。そして直子が自殺してしまった後ワタナベは結局直子はキズキのものだったという、ふたりの絆の強さを認めるような述懐をする。似たような関係が「国境の南・・・」の主人公と島本さんの間にもある。ふたりは幼なじみだったし紆余曲折を経た後もその絆は強固だった。それはどこまでも尊重されるべき絆でありそのためなら周囲が傷つこうが迷惑を被ろうが構わないんだとでも言いたがっているかのようだ。そして記憶が確かならば「1Q84」の青豆と天吾も同じような関係にある。それについては「1Q84」を読み返した後に触れられたら触れたい。
 1990年に就職してから後に出た村上さんの作品は時間が無くてほとんど一度しか読んでないと思う。今はもう少しで「ねじまき鳥クロニクル」を読み終えるところだけど第三部なんてあまり読んだ記憶がない。でもナツメグとシナモンの名前は覚えてるので読んだんだと思う。ちなみに第三部で登場する牛河という人物は「1Q84」にも出て来るらしい。