指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

まとまらない話。

 月曜の夕方は生徒さんがひとりもいない時間が一時間だけある。今日はその時間ひとりで駅前に行き借りてた本を返し銀行でお金を下ろした。帰りに若いお父さんと四歳か五歳くらいの男の子の二人連れの後ろを歩くことになった。ふたりの会話を聞くともなしに聞いてるとオレンジ色の電車ってなんだっけと男の子。中央線とお父さん。中央線速いよね。走ってみると言って駆け出す男の子。気をつけてねとお父さん。少しして追いついたお父さんに中央線て何色だっけと男の子。オレンジ色とお父さん。男の子はまた走り出しお父さんはそれを追って足早に向こうに行ってしまった。中央線好きなんだね確かに速いもんねとほほえましかった。それはかつてのうちの子と僕との似姿でもあった。うちの子も電車が大好きだった。いいなあうらやましいなあと思った。もう一度小さかった子供と散歩するというのも悪くないなあ。ところが遠く離れたふたりの後ろ姿を眺めてたら不意に鼻の奥が痛くなりあっという間に涙がこぼれた。薄暗がりなので道行く人にはわからなかったと思うけどうつむくとぱたぱた涙が落ちた。何が悲しいのかと言うと自分でもよくわからない。いや自分なりにはわかってるつもりなんだけど絶対にうまく説明できない。そこを強引に説明しようとするとこういう言い方になる。男の子とお父さんのふたり連れは必ず何か切実なものを帯びている。切実にもの悲しい何かを帯びている。そのもの悲しさはお父さんと娘とかお母さんと息子とかそういう組み合わせにはないのかという当然の疑問に対してはわからないとしか答えようがない。僕が知ってるのは男の子とお父さんの道行きに関してだけでそこには原理的にと言うより他に説明しようのない圧倒的なもの悲しさが備わっている。うちの子と僕も随分長い時間をふたりで歩くことで過ごした。そしてそこにもそのもの悲しさが影を潜めていた。それに気づかない訳には行かなかったし気づいたら今度はそれから目を離すことができなかった。そういうすごい存在感の何かなんだけどたぶんうまくお伝えできてないと思う。すいません。
 こういう援用の仕方はもしかしたら卑怯なのかも知れないけどこのもの悲しさがわかってるんじゃないかと思える小説を読んだことがある。それはコーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」だ。近未来のすさみきった世界での男の子とお父さんふたりだけの道行きの話だ。僕はこの小説がとてもとても好きだ。そこにはあらゆる男の子とお父さんのふたり連れを象徴しうる何かがきっちり書き込まれている。