指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

中地先生の思い出。

オフコースのことを書いていて思い出したのだけど、高校2年生のとき友人に誘われて3週間の夏期講習を受けるために上京したことがある。駿台予備校だった。その夏すごくヒットしていたのがオフコースの「YES-NO」と長淵剛の「順子」だったのだけど、まあそれはここでは措く。当時の駿台には英語では伊藤和夫先生とか、数学では秋山仁先生とか(当時の秋山先生は今のように蓬髪ではなく七三に近い髪型をしてスーツを着ていた。と思う。)物理では山本義隆先生とかがいた。僕はすでに文系に絞っていたので山本先生はあまり関係がなかったが、その他の先生の著した参考書や問題集には随分力を入れて取り組んでいた。もちろん高校2年生向けの夏期講習にそれら花形の先生が登場することはなかった。彼らの授業を直に受けることになるのは浪人してからだ。
それはさておきやはり夏期講習を受けることにはそれなりの効用があった。まず大学受験に対するスタンスが一気に変わった。それまでは地元の国立大学の教育学部に入り、県内の小学校か中学校の教師になるだろうというのがぼんやり頭に描かれた道筋だった。それがどうしても東京の大学に進みたくなった(でもこれは今から思うと親譲りの無鉄砲から出た失策だった。)。ひとつには当初予定していたよりもう少し上を目指せそうな気がしたこと、もうひとつは神田にある大型書店に行き地元の書店とは桁違いの圧倒的な物量に度肝を抜かれたこと、そしてもうひとつは中地晃先生の授業で学問の深みのようなものに気づかされたこと、それらが主な理由だった。
中地先生は駿台の講師陣の中ではマイナーな方に属していたと思う。英作文を教えていた。しかしその仕事に対する誠実さ、熱意、知識にはほとんど震撼させられた。そうしたものが小柄で度のきつい眼鏡をかけたどちらかと言えば冴えない風貌の中年男(ひどい言いようだけどまあそんな感じなのだ。)の中に込められているのだ。歩く学問がそこにいる気がした。
その真骨頂は大手出版社の模範解答を添削してしまうことだった。今ひとつも例を引けないのが本当に残念なのだが、目の前の黒板の上で哀れな模解はみるみる削られ、書き加えられ、まるで別なものへと書き換えられて行った。文法的に正しきゃいいってことではないんですよ、というのが先生の口癖だった。英語でこんなこと言うかってことなんです。そういう意味では模解は英語ではないのだった。それはあえて言えば受験英語でしかないのだった。
中地先生の授業を受けなければ、大手出版社の模解にも問題があるなんて一生思わなかったに違いない。違いないんだけど、せっかくの先生の教えも結果的には身につかなかったことになる。今当時の中地先生の心のあり方を想像すると、いろいろあったんだろうなという気がするけど、それを書き出すと自分にとって大切な思い出が薄まってしまいそうだ。そのかっこよさだけを鮮明な姿で、記憶の中に留めておきたい。