「ラスト・タイクーン」F・スコット・フィツジェラルド著 大貫三郎訳
「夜はやさし」に続いて訳者と角川文庫は合っているけど読んだのはこの版ではない。でも画像が無いと寂しいので。
未完なのではっきりとは言えないかも知れないが、やはり古くて美しい倫理を持った男が滅んで行く話と言っていいと思う。舞台はハリウッドで何もかも華やかだ。実はいちばん印象に残ったのはその華やかな雰囲気だった。でもどんな舞台にも舞台裏はある。彼はその舞台裏の誰も知らない場所でひとり孤独に崩壊して行きつつある。不吉な予兆があり、別れがある。そして現存する最後の章を書き上げた翌日、作者は心臓の発作でこの世を去る。それを思い合わせるとフィッツジェラルド自身がラスト・タイクーン、最後の大君だったようにも思われて来る。
「夜はやさし」にもこの作品にもちょっと読んだだけではなんのことかよくわからない文章がある。正直「ラスト・タイクーン」の方がその量が多いとも思う。村上春樹さんは「グレート・ギャツビー」の訳者あとがきで以下のように書いている。
(前略)訳文としてはあっているけれど、どういうことなのか実質がよくつかめない、ピンと来ない、ということは極力避けるようにつとめた。(後略)
村上さんがわざわざそう書かれているのは、それまでの翻訳にはそういうことがあったということが前提になっているのではないだろうか。ギャツビーだけではなく他の作品でも。でもまた一方で村上さんは同じ文章でこうも書かれている。これはフィッツジェラルドの原文についてだ。
(前略)多くの言葉は多義的で曖昧なままに、いろんな可能性や暗示を抱えてぼてぼてになったままに、空中にふっと吸い込まれてしまう。いったい何でここにこんな言葉が急に出てくるんだろうと、まじめな翻訳者としては真剣に首をかしげてしまったりもする。(後略)
だから一見何を意味しているかわからない文章があるのは、翻訳のせいでもあり得るし、フィッツジェラルド自身の文体のせいでもあり得ることになる。
どちらにしてもそれが読者の置かれた現状だ。だから読者はフィッツジェラルドを読むための最適な場所を、自分でどこかに見いださなければならないことになるように思われる。距離、角度、明るさなどが絶妙なバランスを保った場所、そんな、フィッツジェラルドを読むのに最適な場所が、どこかにあるはずなのだ。