誰もが自分の物語を抱えて生きているけどそのことをどの程度意識しているかは人によって随分違うように思われる。主人公は自分の物語にすごく自覚的でだから他人が抱えている物語もできうる限り大切にしようとしている。また自分を抑圧して来る他人の物語にも敏感で違和を感じやすい。もしも近くにこんな人がいたらそれはそれで結構疲れさせられる気もする。でも自分が人と違っていると感じられるとき、その自分をありのままに生かし続けようとするなら、こう戦うしかないのかも知れない。少なくとも個人的にはその戦いの感じがよくわかるし、だから僕も周囲の人々をうんざりさせる場面を多く持っていることになる。誤解を恐れずに言えばそれはまた作者の似姿にもなっている気がする。そんな主人公の物語の中ではときに既成の価値観がくつがえされる。妻が亡くなって一年が過ぎ妻はますます主人公から離れて行く。でもタイトルの「美しい距離」は、そんな妻との距離、離れて行きつつある妻との遠い距離を指していると思われる。もし本当にそうだとするなら、愛する者を見送ることはそれほど悪いことではないのかも知れない。そんな希望も抱かせる。
入院生活から葬儀の終わりまでのプロセスが実用書みたいに書かれているのに、妻を失った悲しみは具体的にはほとんど描かれていない。それもまた「悲しみを乗り越える」という既成の物語と、主人公が戦った成果なのかも知れない。