指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

対照的な二冊。

中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)

 うちにある中公文庫版の「中国行きのスロウ・ボート」には確か今はなくなってしまったブックセンター荻窪の四つ葉のクローバーを模したような柄のカバーが掛かっている。住所も電話番号も記載されているけど電話番号は市外局番抜きで今の八桁ではなく七桁だ。二十代の初めにその書店を日常的に利用していた。カバーはページの折り返しのところがほとんどと背表紙のところが一部すり切れてなくなっている。同じカバーは講談社文庫版の「風の歌を聴け」にも「1973年のピンボール」にも「羊をめぐる冒険」にもかかっている。でもいちばん傷みが激しいのはこの「中国行きのスロウ・ボート」のカバーだ。おまけにページも何枚かはがれ落ちてしまって本に挟み込まれている。
 僕はこの本がとても好きで数え切れないほど繰り返し読んだ覚えがある。もちろん最近の話ではない。今の年の半分以下の頃だ。でも三十代のときにも四十代のときにも五十代になってからでさえ折に触れて読み返したんじゃないかと思う。それほどの頻度じゃなくてもごくたまには。だからかなり細部まで覚えてる作品もある。でも今回通読してみて気づいたのは気に入った作品とそうでもない作品が割とはっきりしてるということだった。気づいた、と言うよりそのことを思い出したと言う方が正確かも知れない。つまり表題作と「午後の最後の芝生」、「土の中の彼女の小さな犬」(と入力したら、ATOKに「の」が多すぎると警告された。でもこれ以外考えられないタイトルだと思う。)、「シドニーのグリーン・ストリート」はものすごく何度も読んでるけどその他は比較的そうでもないということだ。この前「みみずくは黄昏に飛び立つ」を読んでたら「午後の最後の芝生」は読み返せないという作者の発言に出くわしたけどそれは彼女、もしくは妻が自分を捨てて他の男のもとへ赴くという何度も繰り返されているテーマの処理がこの作品ではうまく行ってないということなんじゃないかと個人的には思う。初めて読んだときにもなんか不自然だと感じたし今回読んでもそうだった。でも作品としてはとても気に入ってる。表題作は中国人にまつわる三つのエピソードがどれもとても深く心を打つ。ただ随分前にも一度書いたけど終わりはちょっとセンチメンタル過ぎるような気がする。短編集「象の消滅」の日本版に収録された別バージョンをいつだか読んだけどそちらではラストはかなり刈り込まれていてやっぱりなと思った記憶がある。でも作品としてはとても気に入っている。要するにこの短編集はいくつか問題があるように思われるけどそれでも(それゆえに?)とても気に入ってるということになるんじゃないかと思う。「シドニーのグリーン・ストリート」もある意味でチャンドラーに対するオマージュと取れる気がすることも前に一度触れた。
 これに対して「蛍・納屋を焼く・その他の短編」は表題作の二編以外はあまり読んだ記憶がない。まったくないという訳じゃないけど「中国行き・・・」に比べるとずっと存在感が薄い。それはおそらく単行本しか持っていないからじゃないかと思う。若い頃は新刊が出るととりあえず買って読み何年か後に文庫版が出るとそれも買ってその後読み返すのは主に文庫版という読み方をしていた。例外もないではないけどまあ大体そういうパターンだった。でもなぜか「蛍・・・」の文庫版は持っていずそれで読み返す機会がとても少なかったと思われる。ちなみに「踊る小人」は「象の消滅」日本版に、「めくらやなぎと眠る女」は前掲書第二弾に当たる「めくらやなぎと眠る女」日本版にこちらは表題作として収録されていて(ただし短編のタイトルは「めくらやなぎと、眠る女」になっている。)どちらもそこで再び読んでるはずなのにそれでも印象が薄い。ただ「あとがき」にある作者の「理由はうまく言えないけれど、小説を書くことはとても好きです。」はこのまま丸暗記したみたいにはっきり覚えている。その頃はまだ自分も小説を書きたいと思っていたからだと思う。
 尚、前回のエントリで触れた「スパゲティーの年に」の別バージョンは「めくらやなぎ・・・」に収録されてました。