指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

病欠。

何日か前に塾で生徒さんが突然吐いてしまいその片付けをした。次の日だったか迷惑をかけたと親御さんが手土産を持ってやって来たので聞いたらおなかに来る風邪ということだった。ノロ・ウィルスとかだったらやだなと思っていたのでひとまず安心した。おとついになって仕事を終えて帰宅すると食欲が全く無い。それでも家人が出してくれた夕飯は食べようと思えば食べられたのでちょっと無理して食べた。ところがそれを入浴後にきれいに吐いてしまった。それでも全く空腹を感じない。のみならずなんだか熱っぽいので測ると37度ちょっとある。でもいつも飲んでるロキソニンはたまに胃に来ることがあるので飲むのがためらわれた。とりあえず胃を優先して胃薬を飲んで寝た。午前二時に目が覚めるとものすごく胃が痛い。もう一度胃薬を飲むと少しよくなったが一時間後に元に戻ってしまった。これは胃酸の出過ぎじゃないかと思ってトイレで胃液を吐けるだけ吐いてからもう一度胃薬を飲む。すると痛みは治まって朝方までうとうとした。六時に例によって家人が子供のお弁当をつくるために起きて来たので、もう少し強い胃薬を出してもらい吐き続けでのどが渇いたので水を何杯か飲んだ。眠れないのでベッドでごろごろしていると9時近くになってさすがにおなかが空いてきた。レトルトのおかゆがあると言うので温めてもらい梅干しと一緒に食べると特に吐き気もなく胃に落ち着く。熱を測ると8度ちょっと。体の節々と背中、ふくらはぎなどが痛むのでマッサージしてもらう。行きつけの医者に行くべきか迷ったけどちょっと出かけられる感じがしないので午前中は安静にしていた。また塾は無理そうだったので保護者向けにメールを一斉配信して休む旨を伝えた。昼食にも念のため消化の良さそうなものを食べ昼寝から起きると胃の方は大体よくなっていて熱だけがつらかった。医者というのは億劫でも行っておいた方が後々楽になることはわかりきっているので夕方になって重い腰を上げて出かけた。生徒さんの話をすると、うつされたねと言われ胃腸炎という診断で薬が処方される。夕食は普通にパスタを食べたけど何の問題もない。主に胃と腸の薬が出たが厄介なのは熱なのでとんぷくとして三回分だけ処方された解熱剤を夕食後と今朝の朝食後に飲んだ。今朝はまだ7度ちょっと熱があった。昼食後昼寝して起きるとまだちょっと熱っぽいがもう一日休むと振替授業の日程を調整するのが大変なので保護者向けに今日は授業をする旨メールを一斉配信した。それで今教室で授業の合間合間にこれを書いてるんだけど熱はすっかり下がったみたいだ。
と、ここまで書いたのが10日土曜日の夕方。仕事を終えて帰宅すると今度は家人が食欲がなくて微熱があるということで僕のがうつったように思われる。僕は胃の方はすっかりよいのでまだ何日か分ある薬を家人に譲りそのせいか家人に吐き気は訪れなかった。ただ今日12日まで微熱が続いている。熱のためにはロキソニンを飲んでいる。僕も木曜日に発症して今日現在まだ微熱が下がりきっていない。地味に、結構厄介な病気にかかってしまった気がしている。

移り変わる「本当」を求めて。

小説かと思ったらほぼエッセイと言うか考察。作者は最近考察を小説で書いたり小説を考察で書いたりしている。でもそれは詩のような小説でデビューしたこの作者には似つかわしいのかも知れない。テーマをひとことで言えば移り変わる「本当」を求めて、ということになる。それもまたこの作者のいつもの姿勢だ。「本当」は移り変わって行く。時間と共に、あるいは時間の中で生起する様々な出来事と共に。特にこの作品に色濃く影を落としているのは「あの日」、つまり2011年3月11日だ。
なので初出は古く2012年までに書かれたものの集まりだ。それらを集めて今一冊の本として出す意味が今ひとつわからないんだけど作者としては何か思うところがあるのかも知れない。なんだか読んだことのある章も個人的には含まれていた。もうひとつ個人的なことを言えば戦後文学というのには確かにあまりなじみがない。椎名麟三埴谷雄高だけは結構読んだけどそれはドストエフスキーに影響を受けた日本の作家という理由があったからで、戦後文学の一翼を担った作家という意味ではなかった。太宰治も読んだけど明らかに戦前から活躍していた作家だし。武田泰淳とか野間宏とか敬して遠ざけていた感が強い。それがなぜなのかちょっと考えてみたいと思った。

読みやすいブローティガン。

愛のゆくえ (ハヤカワepi文庫)

愛のゆくえ (ハヤカワepi文庫)

新潮文庫版を随分前に読んだんだけど最寄りのブックオフでこのハヤカワepi文庫版を見つけて何気なく手に取ったら解説が高橋源一郎さんだったので即買い。ちなみに訳者は両方とも青木日出夫という方なのでほぼ同じ訳だと思われる。例によってストーリーは全然覚えてなくてヒロインの名前くらいしか記憶になかった。だからこのアフェアがどのような結末になるか興味津々で読んだ。物語としては最近読んだこの作者の二作に比べると圧倒的にまとまっている。もちろん比喩はやや独創的に過ぎるし会話も時にアクロバティック過ぎるように思われるけどそうだとしても。むしろそうだからこそこの作者らしさを感じ取ることができる気がする。そういう意味でブローティガンの作品の中では比較的読みやすくしかも作者の個性の質を存分に味わえる作品になっていると思う。高橋さんの解説は哀しい。また訳者あとがきと高橋さんの解説の両方共がこの作家の自殺から説き起こされていることはきっと偶然ではないのだろう。

読みづらい訳。

大渦巻への落下・灯台 ポー短編集? SF&ファンタジー編 (新潮文庫)

大渦巻への落下・灯台 ポー短編集? SF&ファンタジー編 (新潮文庫)

読みづらい訳(やく)ではありません。訳(わけ)です。
ポーの作品は多かれ少なかれ読みづらさを感じさせずにはいない。今回読んだ新潮文庫版は、前の二冊が十年ちょっと前、この作品が三年ほど前に出たもので訳は古くない。でも特に最後の一冊はかなり読みづらい。これは自分のこらえ性がなくなってきたことがいちばんの原因のように思われる。また若い頃の話で申し訳ないんだけど作品に対する尊敬の念と言うか読んでわからないのは自分の読解力のせいだという思いが完璧に近く強かった。だからわからなければわかるまで読み返すしそれは作品の部分に対してもそうだったし作品全体に対してもそうだった。でも今はちょっとわからないといいや別にわかんなくてもという感じでどんどん先へ進んでしまう。当然作品から受け取るものも小さくなるはずなんだけど特に気にならなくなった。そんなに努力して本を読んだりしたくないと思っているようだ。
ただそれだけとも思われなくてやはりリアリティーに対する考え方、感じ方が170年前と今とでは随分違うんじゃないかという気もする。頭の中にあるなんらかの構造が決定的に異なっているように感じられる。たとえばブローティガンもわかりづらい作家だと思うけど少なくとも何が書いてあるかは読み取ることができる。確かにそれが意味していることは読み取れない場合もあるかも知れない。でも書いてあることは全部わかる。ポーの作品ではしばしば何が書いてあるかがわからない。これはメルヴィルの「白鯨」を読んだときにも感じたことだけどどこに視点がありどの角度から何をどのように見て書いているのかが全くわからないということが起こる(ただしこれは僕の想像力が欠けている事態をも指しうる。)。描写と時間の流れの関係もよくわからないことがある。この点でポーのわかりにくさとブローティガンのわかりにくさは本質的に異なっている。
一編だけスティーヴン・ミルハウザーっぽい作品があったんだけどなんとこれはノンフィクションということだった。たまげた。でもポーは多くの作家に影響を与えているということだからミルハウザーも影響されているのかも知れない。

その人の文体。

ガルシア=マルケス「東欧」を行く

ガルシア=マルケス「東欧」を行く

ガルシア=マルケスの書いたノンフィクションというと「ジャーナリズム作品集」とか「戒厳令下チリ潜入記」とかあとコロンビアの誘拐について書かれたものなどを読んだことがある。「幸福な無名時代」なんていうのもあったか。でも読んだのはいずれもかなり昔でどんな感じだったか覚えていない。この本が出ると知ったときもどちらかと言えば自分はこの作者のフィクションが好きなのであってもしかしたら読んでがっかりするような作品なんじゃないかという気がした。でも読み始めてたったの一ページでそんな不安は霧消した。そこにはガブリエル・ガルシア=マルケスにしか書けない文章があったからだ。それはノンフィクションの文体と言う以上にガルシア=マルケスの個性に貫かれた文体だった。ここに収録された文章が書かれたのは大体1950年代の後半のことらしい。最初の短編集「落葉」に収録された作品群が書かれたのが1947年から1955年の間ということなので(あまり反響はなかったらしいが。)、すでに作者はフィクションのための文体をつくり出していたことになる。それが、このノンフィクションの文体にそれほど違和感を抱かせない原因となっているように思われる。もちろんたとえば「百年の孤独」と「迷宮の将軍」では文体はかなり異なっていた覚えがあるけど、それでもこの作品も含めてどの作品にも紛れもない作者の刻印が捺されていると考えていい。
それから余談なんだけどこの本の底本がよくわからない。コピーライト表示を見ると「Da viaje por Europa del Este by Gabriel Garcia Marquez Copyright 1983 by Gabriel Garcia Marquez (以下略)」とあるので1983年に出版されたのかと思ったら、「訳者解説」にはこうある。

(前略)
 本書を訳してみようと思ったのは、新潮社出版部の冨澤詳郎氏からこのような本がスペイン語圏で改めて出るとのことですが、一度目を通していただけませんかと依頼されたのがきっかけだった。(後略)

残念なことにこの「訳者解説」には日付がついていないので訳者がこれを訳したのが1983年当時だった可能性は捨てきれないが、それを今年になって出版するというのも現実的には不自然な話だ。だとすると底本はどれなんだろう。どうでもいいかも知れないけど気になる。

ええと。

モルグ街の殺人・黄金虫 ポー短編集? ミステリ編 (新潮文庫)

モルグ街の殺人・黄金虫 ポー短編集? ミステリ編 (新潮文庫)

あまりにも有名な「モルグ街の殺人」、「盗まれた手紙」などが収録されている。この二編は初めての推理小説という意味ではその功績は計り知れないと思う。少なくともオーギュスト・デュパンの存在無しにはたとえばシャーロック・ホームズの人物像はあり得なかったと思われるほど共通するものがある。でも今読むとちょっと無理があるんじゃないかという気がする。ええと、それってマジで言ってんの?という読後感になってしまう。収録されている六編のうち推理小説と呼べるのは上記の二編だけだが残り四編のうちの三編までにも同じような感想を持った。残りの一編「群衆の人」はミステリーと言うよりなんかシュールな作品。でもロンドンの町並みの雰囲気がとてもよく感じられて楽しかった。

過剰と極限。

黒猫・アッシャー家の崩壊 ポー短編集? ゴシック編 (新潮文庫)

黒猫・アッシャー家の崩壊 ポー短編集? ゴシック編 (新潮文庫)

六編が収録されている。どの作品にもある種の極限状況が描かれていると言っていい。その極限状況を招いているのは登場人物たちの精神的な過剰さだ。時に自意識であったり、愛憎であったり、生への執着であったり、暗く病的な感受性であったり、どの人物も過剰さを抱えそこから逃れられなくなっている。だから物語は、想像力を駆使した思考実験の様相を帯びる。舞台の設定は周到だ。そのきっちり設定された舞台上で過剰を抱えた人はどのように心を動かすのか、そのような知的好奇心が作者の創作の源泉のように思われる。「黒猫」はいつ読んだものかお話をとてもよく覚えていたが、語り手の過剰が飲酒によるものであることには個人的にいささか身につまされるところがあった。それと「ウィリアム・ウィルソン」はドッペルゲンガーと言うより二重人格の方が近いように思われた。

語り手は乗り組んでいない。

白鯨 (下) (新潮文庫 (メ-2-2))

白鯨 (下) (新潮文庫 (メ-2-2))

表紙が違うんだけど同じ版だと思うのでこれでよしとします。
エイハブ船長率いるピークォド号に語り手も乗り組んでるはずなんだけどそれは嘘だと思う。第一に語り手がその船で働いている描写がほとんどない。それから語り手が目や耳にできるはずのないシーンや発言を描写していることも語り手が実際に乗組員であったという印象を決定的に薄めている。最後のオチにしてもとってつけたみたいだ。また物語の展開の部分では一部舞台か何かを手本にしたような文体も用いられているし心理小説の一面もある。それから上巻に関する感想の中でも述べたけど鯨や捕鯨に関する説明や考察の部分がやたらに長い。つまり戯曲と心理描写、それに時としてかなり深い考察を一つに合わせて小説にしましたという趣になる。小説の中には何でも詰め込むことができるという点で言えばもしかしたら画期的な作品だったのかも知れない。その代わりに、せっかく丁寧な手続きで語り手を乗組員にしたはずなのに、結局語り手は神の視点に立ってしまっている気がする。とにかく疲れる読書だった。機会があれば他の訳でもう一度読んでみたい。

中休みをのばせ。

高校の英語のサイドリーダーには訳がついておらず参考書などもない。それで自分で訳しても正解がわからないと子供が言うのでたまに訳してやっている。ところが何しろ英単語を忘れてしまっているので一行読むのに最低二、三回は辞書を引かねばならない。辞書を引くのは速い方だと思うけどそれでも相当な時間がかかる。その上話題がIT関連とか環境問題とかになると、僕が高校の頃使っていた辞書にはそもそも記載が無い。当たり前だが当時はインターネットもバイオ燃料も存在自体が無かったので仕方ない。そこはスマホを使ってウェブを検索する。ウェブの辞書は随分優秀でかなりの精度で正しい単語がヒットするけどそれでも単語を打ち込んだりするのにやはり結構な時間がかかる。平均すると一時間で一ページ訳すのは難しい。昨日も四ページ訳すのに五時間近くかかってしまい、そのせいで「白鯨」の航海は一ページも進まなかった。ちなみに今回のタイトルは吉本隆明さんが書かれたある文章のタイトルをパクったものです。

中休み。

上下巻本で上巻読んでから下巻を開くまでに他の本を読むということは滅多にないんだけど(もしかしたら生涯初。)さすがに「白鯨(下)」にこのまま移るに忍びなくて中休みにこの本を読む。高橋源一郎さんがいろいろな本について書かれる本は読んでいてとても楽しい。でもひとつだけ疑問が。

よくいわれることだが、年をとってくると時間がたつのが速く感じられるようになる。もちろん、気のせいなんだけど、ほんとに、最近、時間がたつのが超速いです。(後略)

172ページにこうあるんだけどこれは気のせいではないと個人的には思っている。たとえば十歳の人にとって一年は人生の十分の一だけど、六十歳の人にとって一年は人生の六十分の一だ。自分の人生の十分の一の時間と、六十分の一の時間だったら、前者より後者の方が短く感じられて当然ではないか。一年が短く感じられれば一ヶ月も、一週間も、一日も、一時間も短く感じられる道理だ。実感に即して言ってもたとえば子供の頃の一時間と今の一時間が同じ長さだとは到底信じられないし、それが「気のせい」で解決できるようなあいまいな差異だとも思えない。
この前の「民主主義って何だ?」の中で「僕も九条は変えたほうがいいと思ってる。」と発言されたのを読んで心の底からたまげた。まだはっきりした形をとってはいないかも知れないけど高橋さんに対する違和感のようなものが生まれようとしてるのかも知れない。

ひたすら読みづらい。

白鯨(上) (新潮文庫)

白鯨(上) (新潮文庫)

確かに新潮文庫には随分お世話になってきた。ドストエフスキーヘミングウェイもほとんど全作品を新潮文庫で読んだし、カフカとかカミュとかシェイクスピアとかトーマス・マンとか、海外文学の多くも新潮文庫で読んだ。夏目漱石森鴎外川端康成とか日本の小説の多くも新潮文庫で読んだ。ドストエフスキーは今は知らないけど僕が読んでた頃は米川正夫さんの訳で一ページに二十行近くものすごく小さな活字が詰め込まれていて訳文も今思えば古かった。でもこちらも若かったしそんなの全く気にかけず繰り返し読んだ。しばらくして大江健三郎さんのエッセイで海外文学の翻訳というのは新しければ新しいほどいいといった趣旨の文を読んで、個人的に米川訳にとても愛着を持っていたのでそういうものかなとちょっと疑問に思ったのを覚えている。
今回手に取った「白鯨」も新潮文庫版で初版が昭和二十七年、昭和五十二年に改版されたものの平成十六年に出た第六十五刷だ。ブックオフ・オンラインか、アマゾンのマーケット・プレイス(両方とも最近よく利用する。)で安く買ったもので、平成十六年からもいい加減時間が経ってるしもしかしたらさらなる改版か新訳が出てるかも知れないと思って今調べてみるとどうも現行の新潮文庫版「白鯨」もこれと同じものらしい。そしてそれはちょっとまずいんじゃないかという気がする。まあ活字が前述のドストエフスキー級に小さいのは仕方ないとして(それに困らされているのは視力が衰えたという個人的な理由からだから。)、訳文が古すぎるからだ。おそらく原文からして海外の小説独特のあの持って回った表現が多用されているように思えるところへ、さらに回りくどい訳文が当てられていて申し訳ないけど本当に読みづらい。ところどころ何度読み返しても何を言ってるか皆目見当がつかない。読んでる途中で次に読みたいエドガー・アラン・ポーの翻訳の中古を探したんだけど、この作品に懲りてどんなに安くても翻訳年が古いものは絶対に買わないことにした。ここに至って完全に宗旨替えすることとなった。僕はもう圧倒的に大江健三郎さんを支持する。翻訳は新しければ新しい方がいい。ただし若い頃に読んだ訳には愛着を持っていてもいい。また現行の新潮文庫版「白鯨」はよほど我慢強い方でない限りお勧めしません。と、また前置きが長くなった。
上巻を読んだだけだけど物語が動いているのが半分、鯨、並びに捕鯨船捕鯨という仕事についての百科事典的解説が半分といった印象になる。要するに説明部分がやけに長いように感じられる。もちろんこの説明がなければ物語が鮮明な像を結ばないんだろうけどそれにしてももう少し風通しよくならないかなあという気がする。と言うかもうひたすら我慢の読書。ただしボートでの鯨狩りのシーンはさすがの迫力なので、もう少し日本語がクリアになれば全編がもっと力強くなるのかも知れない、と、結局は同じことの繰り返し。まだ下巻が四百ページ以上残っている。

すごくおもしろかった。

完訳 緋文字 (岩波文庫)

完訳 緋文字 (岩波文庫)

アメリカ文学史の旅のこれが第一歩。時系列で言うとエドガー・アラン・ポーを先に読むべきだったみたいだけど文学史なんてこれまで一顧だにしていなかったので多少のミスはご勘弁ということで。ポーも近く読む予定。1850年に刊行されているんだけど、その時点を一応の「現在」とするとその80年前にある税関の審査官が老人たちから、その老人たちが若い頃にはすでに年老いていた女性について聞き書きしたお話、という正に「薔薇の名前」的入れ子構造になっていて驚いた。エーコがこの作品を読んでいなかった可能性はほぼ無いと思うのでだとしたら「薔薇の名前」の着想の元はここにあるかも知れない。それはさておき作者にとってのこの構造の意味は、おそらく事実とは解釈なのだという主張にある気がする。物語中にも事実に対する解釈の多様性についてはっきり述べているくだりがあるし、それは作者が強く意識していることのように思われる。
文体は古風な心理小説の面があるけど思うほど読みづらくはない。そしてすごくおもしろい。途中までは一種の謎解きとして読むことができるしその後の展開も興味をそらされない。ただし版によっては多少内容が異なる可能性があるのかも知れない。この「完訳」版に限って言えば大変お勧めです。

耳の痛い話。

民主主義ってなんだ?

民主主義ってなんだ?

悪いのは議会制民主主義であることは明らかだと最初から思っていた。おそらく民主主義、と言うかもう少し厳密に民主制は、直接民主制でなければ意味がない。それは衆議院で与党が過半数を占めてしまえば理屈の上ではどんな法案でも通すことができ野党が反対しようが欠席しようが実質的に無意味であることに端的に表れている。個人的な政治に対する無力感はこのことを根拠にしていた。今回この本の高橋源一郎さんの発言から、このことはアリストテレスやルソーが言っていることと大筋で同じだとわかった。
でもそうであっても僕のように無力感にとらわれず、あるいはとらわれながらも特定秘密保護法や戦争立法に対して異を唱えアクションをし続けた若い人たちがいた。その内実を事細かに知り、とても耳の痛い話だと思った。だからと言ってこれから自分が何かアクションをするとも思えないんだけど。

愛と幸せと資本主義。

若者はみな悲しい (光文社古典新訳文庫)

若者はみな悲しい (光文社古典新訳文庫)

フィッツジェラルドの短編集はいくつか読んだけど本国で発行されたものをそのまま一冊訳したというのを読むのは初めてなんじゃないかと思う。フィッツジェラルドについて書かれたものをちょっと読めばすぐわかるけどこの人の短編は玉石混淆ということになっている。だから質のよい短編だけを集めた日本版のアンソロジーみたいな形が一般的になってるのかも知れない。でもそれぞれの質はどうあれできるだけ多くの作品を読みたいという読者も相当数いるんじゃないかと思うしだとしたらこの翻訳は貴重なものになるはずだ。
全部で九編が収録されている。稀なケースをのぞけばそこに登場するのは美しい女とその貧乏な、あるいは裕福な恋人(たち)もしくは夫だ。そして全員がそれぞれの幸せを割と貪欲に追い求めている。そのせいで美しい女と彼女を愛する男たちは時に対立する。美しい女たちは男に裕福さを要求することが多いようだ。岡崎京子さんの「pink」の帯に「愛と資本主義」という忘れがたいコピーがあったのを思い出す。フィッツジェラルドの短編では愛と幸せは資本主義ととても密接に結びついている。それは時代の寵児となり一世を風靡しながら妻ゼルダと共に没落していった作者の生(なま)の価値観がどうしてもぬぐい去れないかのようだ。でもいくつかの作品は美しい、哀しい幕切れを持っている。これこそフィッツジェラルドの作品だとそのとき思う。いくつかの短編は他の短編集でも読めることを付記しておく。

読む日と書く日。

前にも触れたけど最近心に余裕ができてそれは主に懐に余裕ができたからなんだけど自分としてはよく本を読んでいる。一冊読むとこのブログ向けに何か書くことにしている。書かないと次の本には進まない。その他仕事でもいろいろ書くことがあるので本について書いた後にそれらもまとめて書く。なので読む日と書く日が交互にやって来る。読むことはたぶん自己否定だと思う。書くことは自己肯定を多分に含んでいる。その繰り返しのバランスのよさも今の精神状態を明るく安定させている大きな要因となっている気がする。もしも書くことが自己肯定より自己否定を多く含むことになればそれはプロの書き手ということになるんじゃないかと思うけど本当はよく分からない。お金をもらって文章を書いたことなどほんの数えるほどしかないから。吉本隆明さんも詩を書き始めた動機は自己慰安だと書かれている。肯定と慰安は若干異なるかも知れないけど大きくくくればプラスイメージということで共通させることができるかも知れない。でもプロの詩人として書くようになってからは詩作は自己否定を含んでいたんじゃないか。本当はよくわからないんだけどそんな想定をしている。