指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

ひたすら読みづらい。

白鯨(上) (新潮文庫)

白鯨(上) (新潮文庫)

確かに新潮文庫には随分お世話になってきた。ドストエフスキーヘミングウェイもほとんど全作品を新潮文庫で読んだし、カフカとかカミュとかシェイクスピアとかトーマス・マンとか、海外文学の多くも新潮文庫で読んだ。夏目漱石森鴎外川端康成とか日本の小説の多くも新潮文庫で読んだ。ドストエフスキーは今は知らないけど僕が読んでた頃は米川正夫さんの訳で一ページに二十行近くものすごく小さな活字が詰め込まれていて訳文も今思えば古かった。でもこちらも若かったしそんなの全く気にかけず繰り返し読んだ。しばらくして大江健三郎さんのエッセイで海外文学の翻訳というのは新しければ新しいほどいいといった趣旨の文を読んで、個人的に米川訳にとても愛着を持っていたのでそういうものかなとちょっと疑問に思ったのを覚えている。
今回手に取った「白鯨」も新潮文庫版で初版が昭和二十七年、昭和五十二年に改版されたものの平成十六年に出た第六十五刷だ。ブックオフ・オンラインか、アマゾンのマーケット・プレイス(両方とも最近よく利用する。)で安く買ったもので、平成十六年からもいい加減時間が経ってるしもしかしたらさらなる改版か新訳が出てるかも知れないと思って今調べてみるとどうも現行の新潮文庫版「白鯨」もこれと同じものらしい。そしてそれはちょっとまずいんじゃないかという気がする。まあ活字が前述のドストエフスキー級に小さいのは仕方ないとして(それに困らされているのは視力が衰えたという個人的な理由からだから。)、訳文が古すぎるからだ。おそらく原文からして海外の小説独特のあの持って回った表現が多用されているように思えるところへ、さらに回りくどい訳文が当てられていて申し訳ないけど本当に読みづらい。ところどころ何度読み返しても何を言ってるか皆目見当がつかない。読んでる途中で次に読みたいエドガー・アラン・ポーの翻訳の中古を探したんだけど、この作品に懲りてどんなに安くても翻訳年が古いものは絶対に買わないことにした。ここに至って完全に宗旨替えすることとなった。僕はもう圧倒的に大江健三郎さんを支持する。翻訳は新しければ新しい方がいい。ただし若い頃に読んだ訳には愛着を持っていてもいい。また現行の新潮文庫版「白鯨」はよほど我慢強い方でない限りお勧めしません。と、また前置きが長くなった。
上巻を読んだだけだけど物語が動いているのが半分、鯨、並びに捕鯨船捕鯨という仕事についての百科事典的解説が半分といった印象になる。要するに説明部分がやけに長いように感じられる。もちろんこの説明がなければ物語が鮮明な像を結ばないんだろうけどそれにしてももう少し風通しよくならないかなあという気がする。と言うかもうひたすら我慢の読書。ただしボートでの鯨狩りのシーンはさすがの迫力なので、もう少し日本語がクリアになれば全編がもっと力強くなるのかも知れない、と、結局は同じことの繰り返し。まだ下巻が四百ページ以上残っている。

すごくおもしろかった。

完訳 緋文字 (岩波文庫)

完訳 緋文字 (岩波文庫)

アメリカ文学史の旅のこれが第一歩。時系列で言うとエドガー・アラン・ポーを先に読むべきだったみたいだけど文学史なんてこれまで一顧だにしていなかったので多少のミスはご勘弁ということで。ポーも近く読む予定。1850年に刊行されているんだけど、その時点を一応の「現在」とするとその80年前にある税関の審査官が老人たちから、その老人たちが若い頃にはすでに年老いていた女性について聞き書きしたお話、という正に「薔薇の名前」的入れ子構造になっていて驚いた。エーコがこの作品を読んでいなかった可能性はほぼ無いと思うのでだとしたら「薔薇の名前」の着想の元はここにあるかも知れない。それはさておき作者にとってのこの構造の意味は、おそらく事実とは解釈なのだという主張にある気がする。物語中にも事実に対する解釈の多様性についてはっきり述べているくだりがあるし、それは作者が強く意識していることのように思われる。
文体は古風な心理小説の面があるけど思うほど読みづらくはない。そしてすごくおもしろい。途中までは一種の謎解きとして読むことができるしその後の展開も興味をそらされない。ただし版によっては多少内容が異なる可能性があるのかも知れない。この「完訳」版に限って言えば大変お勧めです。

耳の痛い話。

民主主義ってなんだ?

民主主義ってなんだ?

悪いのは議会制民主主義であることは明らかだと最初から思っていた。おそらく民主主義、と言うかもう少し厳密に民主制は、直接民主制でなければ意味がない。それは衆議院で与党が過半数を占めてしまえば理屈の上ではどんな法案でも通すことができ野党が反対しようが欠席しようが実質的に無意味であることに端的に表れている。個人的な政治に対する無力感はこのことを根拠にしていた。今回この本の高橋源一郎さんの発言から、このことはアリストテレスやルソーが言っていることと大筋で同じだとわかった。
でもそうであっても僕のように無力感にとらわれず、あるいはとらわれながらも特定秘密保護法や戦争立法に対して異を唱えアクションをし続けた若い人たちがいた。その内実を事細かに知り、とても耳の痛い話だと思った。だからと言ってこれから自分が何かアクションをするとも思えないんだけど。

愛と幸せと資本主義。

若者はみな悲しい (光文社古典新訳文庫)

若者はみな悲しい (光文社古典新訳文庫)

フィッツジェラルドの短編集はいくつか読んだけど本国で発行されたものをそのまま一冊訳したというのを読むのは初めてなんじゃないかと思う。フィッツジェラルドについて書かれたものをちょっと読めばすぐわかるけどこの人の短編は玉石混淆ということになっている。だから質のよい短編だけを集めた日本版のアンソロジーみたいな形が一般的になってるのかも知れない。でもそれぞれの質はどうあれできるだけ多くの作品を読みたいという読者も相当数いるんじゃないかと思うしだとしたらこの翻訳は貴重なものになるはずだ。
全部で九編が収録されている。稀なケースをのぞけばそこに登場するのは美しい女とその貧乏な、あるいは裕福な恋人(たち)もしくは夫だ。そして全員がそれぞれの幸せを割と貪欲に追い求めている。そのせいで美しい女と彼女を愛する男たちは時に対立する。美しい女たちは男に裕福さを要求することが多いようだ。岡崎京子さんの「pink」の帯に「愛と資本主義」という忘れがたいコピーがあったのを思い出す。フィッツジェラルドの短編では愛と幸せは資本主義ととても密接に結びついている。それは時代の寵児となり一世を風靡しながら妻ゼルダと共に没落していった作者の生(なま)の価値観がどうしてもぬぐい去れないかのようだ。でもいくつかの作品は美しい、哀しい幕切れを持っている。これこそフィッツジェラルドの作品だとそのとき思う。いくつかの短編は他の短編集でも読めることを付記しておく。

読む日と書く日。

前にも触れたけど最近心に余裕ができてそれは主に懐に余裕ができたからなんだけど自分としてはよく本を読んでいる。一冊読むとこのブログ向けに何か書くことにしている。書かないと次の本には進まない。その他仕事でもいろいろ書くことがあるので本について書いた後にそれらもまとめて書く。なので読む日と書く日が交互にやって来る。読むことはたぶん自己否定だと思う。書くことは自己肯定を多分に含んでいる。その繰り返しのバランスのよさも今の精神状態を明るく安定させている大きな要因となっている気がする。もしも書くことが自己肯定より自己否定を多く含むことになればそれはプロの書き手ということになるんじゃないかと思うけど本当はよく分からない。お金をもらって文章を書いたことなどほんの数えるほどしかないから。吉本隆明さんも詩を書き始めた動機は自己慰安だと書かれている。肯定と慰安は若干異なるかも知れないけど大きくくくればプラスイメージということで共通させることができるかも知れない。でもプロの詩人として書くようになってからは詩作は自己否定を含んでいたんじゃないか。本当はよくわからないんだけどそんな想定をしている。

遠い比喩と遠い結末。

芝生の復讐 (新潮文庫)

芝生の復讐 (新潮文庫)

アメリカの鱒釣り」と比べると文体はなんて言うかとても落ち着いていて、ユーモアよりも哀しみの方に傾いているように感じられる。「『アメリカの鱒釣り』から失われた二章」という章があって短編が二編収録されているんだけどどちらも「アメリカの鱒釣り」に入っていたら明らかに他の章からは浮いていただろうと思われる文体の変化ぶりだ(そのことは作者もしくは語り手自身が本文の中でも認めている。)。それからどの章も「アメリカの鱒釣り」よりは形式として整っていると言っていい。ただしそれでも比喩と比喩される対象物の間の距離、それからストーリーと結末の間の距離が遠いような気がする。もちろんそれがこの作品の大きな魅力のひとつなんだと思う。もしかしたら作者のみに理路がわかっているのかも知れないという想像力の自由さを感じさせるし、ときに唐突に思われる結末がもたらす味わいはこの作者独自のものという印象をつくるからだ。読者はもっとゆっくりこの作品を読むべきなのかも知れない。個人的には読者としていつもできる限り急いでるんだけどそういう読み方はふさわしくない。立ち止まり考えながら読むことが距離を縮める作業となる気がする。いつになったらそんな風な読み方ができるようになるかわからないけど。

ちょっとやり過ぎなほど、すばらしいファンタジー。

フォーマットは集英社新書、タイトルもこうであれば高橋さんの小説以外の仕事、たとえば「ぼくらの民主主義なんだぜ」的な趣旨の本に思えるし実際そういうものだとまるで疑わずに購入した。でもこれは小説としか言いようのない作品だ。主人公のランちゃんは小説家の「おとうさん」と元ヤンの「おかあさん」の間に生まれた男の子でキイちゃんという弟がいる。と聞けば、「おかあさん」が元ヤンだったことを別にすれば(本当にそうなのかも知れないけど)、主人公のモデルは高橋さんの最新のご家族のご長男で、「おとうさん」のモデルは高橋さん自身という構図が透けて見える。そして兄弟が通っている学校も、以前高橋さんが本の中で触れていて僕の記憶が確かならばその後実際にお子さんたちを入学させることになったと聞く「きのくに子どもの村学園」をモデルにしていると考えてよさそうだ。そうするともう登場人物が素晴らしすぎる。おとなたちの誰ひとりとして子供たちを傷つけようとなんてしない。どこまでも柔らかく受け止めてから、どこか高みを目指して子供たちの心を優しく投げ上げるかのようだ。ルールはあるけど否定はない。途中までこんな理想的な大人たちが本当にいるのかと疑問に思った。僕も随分子育てはがんばったと思うけどそれでも後悔してることとかあれは失敗だったかもと思うようなことが結構ある。でもこの本の大人たちはおそらくそんな後悔や失敗など一度も経験したことがないかのように描かれている。いい気なもんじゃないかという気がしたのだ。でも途中から考えが変わった。このちょっとやり過ぎなほど素晴らしい環境をつくってそこに子供たちを囲い込み、作者はひとつの実験をしたかったんじゃないかと思われたからだ。もうひとつ、本当に心痛む現実の児童虐待やそれを行う親たちの姿に対して、この美しすぎる環境を設定することはそれだけでひとつの希望なんじゃないかとも思われた。ただ子供たちをのびのび育てるためだけの世界があったっていい。そういう気がした。
見事な伏線が張られていて最後はびっくりする。でもこれ事実じゃないですよねえ?

作者からの答え。

「バラの名前」覚書

「バラの名前」覚書

前にも書いたように随分前に読んだので「薔薇の名前」については忘れていることも多い。その中でもふたつ大きな疑問があった。ひとつはおそらくホルヘ・ルイス・ボルヘスがモデルに違いない作中人物ホルヘ・ダ・ブルゴスがなぜヴァスカヴィルのウィリアムと対立するいわば悪の姿として描かれているのか。おそらくいかようにも自由に思考することができたはずのボルヘス、それを元にした人物がなぜこれほどまでに狭量なのかということだ。もうひとつは14世紀を舞台にしている割には登場人物たちの思考法があまりに近代的過ぎるのではないかということだ。中世の思考法がどんなものか想像もつかないが今とは随分異なるものであったに違いない。ところが戒律的な不自由さを別にすれば現代人と同じような風通しの良さで誰もが考え発言しているように見える。果たしてそれは妥当なのか。
前者についてはあっさりとこうある。

(前略)みんなから私がしょっちゅう質問されることは、私のホルヘがその名前でもって、ボルヘスを暗示するのはなぜか、また、ボルヘスがあれほど邪悪なのはなぜか、という点である。私には分からない。(後略)

後者についても以下の通りだ。

(前略)
とにかく、一つのことが私を大いに楽しませたのだった、―或る批評家なり或る読者なりが、私の修道士たちの一人があまりに現代的な考えを表明していると書いたり言ったりするたびに、実際には、まさにこれらすべての場合において、私は十四世紀のテクストから文字通りに引用していただけだったのである。(後略)

作者は「実際、私にはありとあらゆる種類のテクストからの極めて多数のファイル・カードや、ときには、本のページ、フォトコピーが無数にあったのだ―その後、利用したよりはるかに多く。」とも記している。もちろん引用部分が中世のものであっても引用のしかた次第では現代の思考法をミックスできるのではないかとの疑問も残るが、ひとまず作者の言を全面的に信じることにすれば中世的な思考とは近現代とかなり近いのかも知れないし、実際作者は別の場所でその可能性を示唆している。
でもそんなことが明らかにされたところで「薔薇の名前」もしくは「バラの名前」(この表記の違いについても思い当たる節が明らかにあるのだが、それは本書の「訳者あとがき」をご覧下さい。)の読解に役だった気は全然しない。ただこの作品を読み返す気があるのかという自問だけが残る。最後に忸怩たる思いにとらわれた以下の部分を引用させていただく。

(前略)
ある小説に入り込むのは、山登りにかかるようなものである。呼吸のリズムを学び、ペースを整えねばならない。さもなくば、やがて息を切らし、とり残されるであろう。(後略)

出典はすべて『「バラの名前」覚書』による。

「アメリカの鱒釣り」再訪。

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

リチャード・ブローティガンをまとめて読んでいたのはいつ頃だっただろうか。実はそれは割と正確に特定することができる。
前に書いたちょっとエキセントリックな彼女が1987年の春から秋にかけて半年間の海外留学に出かけていた。その間僕は東京でかなり寂しい日々を送っていた。確かにふたりは気が合わず諍いが絶えなかったが何はともあれ愛し合ってはいたしそれはふたりのどちらにとっても初めての経験だったから。1987年9月11日最悪の誕生日になるところを救ってくれたのが書店に並んだ村上春樹さんの「ノルウェイの森」だったことにもそうはっきりとではないけど以前触れた。話は前後するけどその年の夏くらいに彼女が留学先でちょっとしたトラブルに見舞われかなり狼狽してコレクトコールで国際電話をかけてきた。とにかく落ち着かせようと必死で話したことを覚えている。一時間くらい話すと料金は十万以上になっていた。十六万とか十七万とかだ。すでに自分のアパートに子供たちを呼んで塾のまねごとをしていたけどその収入と親からの仕送りではとても払いきれない額だった。早急にバイトを探す必要があった。塾のバイトを手伝ってくれていた大学の友だち(彼にお金を払って雇っていた訳だ。)に相談すると自分のバイト先を紹介するからと言うのでありがたくお願いした。数年後そこに就職して二十二年ちょっと務めることになる会社だ。バイトに入ったばかりの頃最近どんな本を読んでいるかある年上の美しい女性社員に尋ねられちょっと緊張しつつブローティガンの名をあげた記憶がある。だから1987年「ノルウェイの森」と前後するようにブローティガンを読んでいたはずだ。晶文社から出ていたのは全部と、新潮文庫から出ていた「愛のゆくえ」を読んだ。ちなみにそれを尋ねた女性社員が後のふたりめの彼女になった。
こうして三十年の時を経て再び「アメリカの鱒釣り」を読むことになったのは、やはり村上柴田翻訳堂が多かれ少なかれ関係している。アメリカの小説を少し系統立てて読みたいと思った。気に入ると手に入る作品は大体全部読むことにしてるんだけどアメリカの作家でそうしたのはブローティガンフィッツジェラルドヘミングウェイ、カーヴァーなどほんのわずかでしかも相互の関連もまるで意に介さずばらばらに読んでいる。これではわかるものもわからないような気がするし現代にたどり着く以前にフォークナーとかコンラッドとか重要な作家も読んでおきたい。という訳で何年かぶりで読書に関する自分なりの方針みたいなものが固まった。その方針通りならすでに読んでいるブローティガンに白羽の矢を立てるのはちょっと違う気もするけど、今もう一度読みたいという思いがとても強くて読むことにした。前置きが長くなった。
ところが本を開いてみると全く読んだ覚えが無い。たとえば「西瓜糖の日々」だったらその透明な世界観みたいなものをよく覚えてるんだけどそういった印象の痕跡も無い。とても独特の文体で書かれた「訳者註」にもまるで見覚えが無い。これは読んだことないんじゃないかと思いながら先を急いだ。いや急がなかった。とても丁寧にゆっくりと読み進めた。そうでなければとても太刀打ちできる作品ではないと感じられたから。形式は短編集と言うかもっと短く断想集といった趣だ。それぞれの断想は物語というよりは何か別のもの、たとえば連想みたいなものを軸にして組み立てられている。主題の「アメリカの鱒釣り」も様々に姿を変える。あるときはクリークに釣り糸を垂らすアメリカの鱒釣りという実際の体験だ。あるときは<アメリカの鱒釣り>と書かれる擬人化された誰かだ。<アメリカの鱒釣りちんちくりん>という両足を鱒に食べられ車いすに乗るアル中もいる。他にもアメリカの鱒釣りホテル、アメリカの鱒釣りペン先などなど。でもそれでいいんだよ、気にすることはないんだ、という作者の声が聞こえてきそうだ。そのそれぞれを楽しんでくれればいい、と。だから各章に書かれていることをそのままに読んで何かを感じ取れればいいんじゃないかと思う。「クールエイド中毒者」ユーモラスでちょっとかわいそう。「胡桃ケチャップのいっぷう変わったつくりかた」<アメリカの鱒釣り>のガール・フレンドがマリア・カラスって不思議。料理も不思議。といった風に。でも「アル中たちのウォルデン池」から始まりたとえば「ワースウィック温泉」や「テディ・ルーズヴェルト悪ふざけ」などいくつかの章を含む「わたし」と「女房」と「あかんぼ」の話は連続しているように思える。そしてそこでは割とまともな愛の形が描かれている気がする。まともであたたかくてちょっとユーモラス。幾分か作者自身のお話じゃないかという気もする。
 最後に近くやっと読んだ覚えのある文が見つかった。

わたしは考えていた。アメリカの鱒釣りならどんなにすてきなペン先になることだろう。

この場合の「アメリカの鱒釣り」はどんな意味なんだろうと随分考えた覚えがある。

近寄ってよく見ろ。

どういう性質の本なのかちょっと説明が必要かと思う。明治学院大学高橋源一郎ゼミで、岩波新書の何冊かを取り上げて全員で読み込み、その後それぞれの筆者を招いて特別教室を開いた。内容は筆者の短めの講演と質疑応答。高橋さんもファシリテーターという位置づけとおっしゃりながら度々発言されている。その特別教室の内容を中心として、ゼミ生が書いた岩波新書の各タイトルについての小文やゼミ生どうしの座談会などが収められている。特別教室は三回あってそれぞれ「鷲田清一 哲学教室」、「長谷部恭男 憲法教室」、「伊藤比呂美(すごい!一発で正確に変換した!) 人生相談教室」となっている。個人的にはどの著者の本も読んだことがないが、その考え方の独自性みたいなものはこの本を読むだけで充分わかるようになっている気がする。伊藤比呂美さんという方はなんかすごいはちゃめちゃな人という印象があったけどとてもまともと言うか信頼していい優しいおばさんでかなり驚いた。長谷部恭男さんは憲法学者で「近寄ってよく見ろ。」と一貫しておっしゃってるように思われた。憲法九条に関する意見も独特で一読に値すると思うし、憲法の役割は良識に帰れと伝えることにあるという説もとても納得が行った。鷲田清一さんは哲学者。個人的には何かを知る、学ぶということは自己否定と言うかこれまでの自分を否定することによってなされるんじゃないかという実感があったんだけど、その通りのことが書かれていてとても共感した。もうひとつ「わからない」ということが契機として重要なんじゃないかとの指摘にはものすごく気を軽くさせられた。わからない、わからないと思いながら、これまでずっと本を読んできたから。それと学生さんたち。いつだって学生は疑問と悩みと迷いを抱えているんだなと今さらながら思った。かつての、あるいは正に今このときの自分自身と同じように。

はてなブログへの移行につきまして。

各位
いつも当ブログをご覧いただき、誠にありがとうございます。心より御礼申し上げます。
さて報じられております通り来年の春をもってはてなダイアリーがサービス終了とのことで、どうしようかとしばし悩んでおりました。現在はてなダイアリープラスのサービスを利用しており、月々180円ずつ支払っていますが、これは主にページから広告を除くことが目的でした。ブログに表示される広告は、あまり美しく感じられないというのがその理由です。まだ詳細に確認してはいないのですが、はてなブログに移行して広告を表示させないようにすると、最低でも月に600円ほどかかるようで、これは負担としてはちょっと大きいのではないかと考えています。ウェブのサービスを利用する際、できれば無料ではなく一定の使用料を支払いたいと常々考えておりますが、今回の措置は現在180円で済んでいるものをいきなり600円に値上げされるという風にしか受け取れず、戸惑っているのが現状です。ただ、いずれにしてもはてなブログへは移行したいと思います。広告表示についてどうするかは来年春までに結論を出したい考えです。ですのではてなダイアリーがサービスを完了する直前までは、こちらでブログを続けて参りたいと思います。今後も変わらず、よろしくお願い申し上げます。

叶えられない愛について。

悲しき酒場の唄 (白水Uブックス)

悲しき酒場の唄 (白水Uブックス)

叶えられない愛についてなら個人的にはとても詳しい。表題作「悲しき酒場の唄」には三つの叶えられない愛が描かれている。愛を抱く前は三人とも孤独でありしかしその孤独を自分なりに受け入れ自立してこう言ってよければ自然で自分らしくあるように見える。(たとえその素行がひどく荒れていたとしても。)でも愛し始めたときから愛するものにとっての悲劇が始まる。誰もが愛する相手に尽くしたいと望み実際に相手のために尽くすが、相手は自分にとって都合のよい部分をつまみ食いするだけで最終的には愛するものを拒む。愛するものにとってそれは全世界から拒まれることに等しい。そこにはどんな誇りも、勇ましさも、希望も、意志も、生命力もない。ただ悲しみだけがある。個人的にはそこに留まり時間が過ぎ去るのをただじっと待つしかなかった。でもあるものは相手に復讐しようと試みる。自分の愛を拒んだことを理由に。でも本当にそんなことをする正当性があるのだろうか。自分を愛さなかったからという理由で相手に代償を支払わせることが可能なのだろうか。世界はそういう風にはできてはいないのに。ただもしかしたらそうすることだけが、拒まれたものが生命力をつなぐ唯一の手段なのかも知れない。あまり賛成できないけどそういうこともあり得るように思われた。

九月。


九月になったなと思ったらもう半ばだ。早い。八月いっぱいで夏期講習が終わり新しいバイトも見つけてないので仕事は依然週六日午後からの六時間のみ。塾というのは生徒さんが問題を解いているのを待つ時間というのが結構長くて今までは気持ちに余裕がないのでただ漫然と過ごすことが多かったんだけど、一旦本を読もうと決めてしまえば一日あたり相当なページ数が読める。それでとりあえず村上柴田翻訳堂の作品はすべて読んだ。ブックオフ・オンラインで探すと価格もかなりこなれていたけどフィリップ・ロスの「素晴らしいアメリカ野球」ともう一冊(どれだか忘れた)は在庫がなくてプロパーで買った。それから村上春樹さんの訳された二作品はあまり値崩れしていないのが印象的だった。全部読んでみていちばん心に残ったのは「卵を産めない郭公」、それから「結婚式のメンバー」、「素晴らしい・・・」と続く。あと二冊だけ挙げれば「アリバイ・アイク」と「チャイナ・メン」か。「結婚式の・・・」の作者カーソン・マッカラーズの「悲しき酒場の唄」の白水社Uブックス版をアマゾンのマーケット・プレイスで見つけてちょっと高かったんだけど買った。感想は後日。
晴れていれば午前中はたいてい家人と出かけるんだけどきょうは雨だったのでふたりでうちにいた。昨日随分読み進めた「悲しき酒場の唄」の続きを読んでたんだけどすぐに読み終えてしまい、これから読む本は塾に置くことにしてるのでその他に読むものを探していると途中までしか読んでないNHKの100分de名著の「ウンベルト・エーコ 薔薇の名前」のテキストがあったのでそれを読むことにした。一回目の放送は見たけど二回目はまだ見てなくて録画してある。翻訳が出たときすぐに買った記憶があるのでこの作品を読んだのはもう三十年近く前だ。その割には印象的なシーンをすごくよく覚えている気がする。もしかしたらどこかで読み返したんだろうか。夏期講習中昼寝ができなかったせいで今は昼寝しようとしても眠れないことが多く、今日もそうだったので昼食後も続きを読んだ。とてもおもしろかったけど考えてみるとこのテキストの存在意義というのが今ひとつよくわからない。すでに読み終えている読者の読みを深めるという点では明らかに分量が足りない。まだ読んでいない読者を本書へ誘うという意味ではネタバレに過ぎる。じゃあ何がおもしろかったのかと言うとエーコ自身のこの作品に対するコメントが読めることで、それってたとえば「バラの名前覚書」のようなエーコ自身の著作を読めば済むことなんじゃないかと思う。あるいはまったく読まないという選択肢ももちろんある訳だけど。個人的にエーコの小説は本作の他に「フーコーの振り子」、「前日島」、「バウドリーノ」しか読んでないので他の作品も読みたいんだけど高いんだよな−。いつか読もう。

語りを幻視する。

チャイナ・メン (新潮文庫)

チャイナ・メン (新潮文庫)

作者は1940年、カリフォルニア州で生まれたと書かれている。作中に出て来るストックトンという町はおそらく実在のものでそれはカリフォルニアにあり実際に作者の故郷であるように思われる。そういう点でこの町はたとえばガルシア=マルケスの作品に出て来る架空の町マコンドとは性格の異なるものだ。またこの作品に出て来る中国人である祖父母や父母、あまたのおじ、おば、兄弟、姉妹、それから「わたし」自身も実在のもののように感じられる。「わたし」は小説的な変容を多少は受けていたとしてもかなりの部分作者自身と等身大のように思われる。そういう意味でもたとえばガルシア=マルケスの「百年の孤独」とは構造がだいぶ異なっていることになる。でもこの作品を読みながら何度もガルシア=マルケスの作品を思った。作者はおそらくこの作品の多くの部分を実在する近親者の語りからつくり上げているが語りを作品に起こすのには幻視する過程が不可欠だからだと思われる。幻視し想像し意味づける。おそらくそれをくぐり抜けることによって事実はいったんばらばらに解体され、様々な要素が作者独自の光学に基づいて腑分けされ分類され、新たな要素をふんだんに盛りつけられて再構成される。それがガルシア=マルケスの作品のような豊穣な語りの感じを呼び起こしているように思われた。短編(もしくは短編と中編?)連作の形をとっていて初めはやや取っつきにくいかも知れないけど文体にうまく乗れると興味深く読み進められると思う。

救うから救い出されるへ。

救い出される (新潮文庫)

救い出される (新潮文庫)

一人称小説。主人公の微細な心の動きの描写に驚かされる。でも実際の心というのは本当にこんな風に時々刻々細かい動きをしているように思われる。ほんの少し状況が変わるだけで目まぐるしく変化を続けているように思われる。少なくとも僕の場合はそうで、だからとてもリアルな作品だと思った。もうひとつ、悪のテーマがある。旅はおそらく何も無かったとしても困難なものになっていたはずだが突如現れる悪の存在によってその様相を一変させられる。なぜこんな悪がなされなければならないのか、その根拠は本当にささいなものでそれだけにかえってグロテスクだ。と同時におそらく誰もこの悪から逃れられないだろうと感じさせる、普遍性のようなものを備えている。語り手はその悪から自分たちを救うために戦いを始めるんだけどタイトルは「救い出される」。「救う」がなぜ「救い出される」に反転しているかはよく考えないとわかりづらいかも知れない。