指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

本が集まる。

 

菊地信義の装幀

菊地信義の装幀

  • 作者:菊地 信義
  • 発売日: 2014/05/26
  • メディア: 単行本
 

  見つからない「村上朝日堂」と「村上朝日堂の逆襲」を図書館で借りた。ついでと言ってはなんだけど好きな装幀家の「菊地信義の装幀 1997-2013」も借りた。アマゾンでジェイ・ルービンのアンソロジーを二冊買ったら今日村上春樹さんが訳されたカーソン・マッカラーズの「心は孤独な狩人」を書店で見つけてこれは高そうだなと思って見たら案の定本体2500円で懐にはかなり痛かったんだけどこれを買わない訳には行かないので買った。菊地さんの本はほぼ写真集なので一時間かからずに見終えたんだけどこれは買えば本体9000円なのでまあ考えようによってはかなり得したと言って言えなくもない。のでマッカラーズ買えてよかったということにしておく。

おしまいと新しい始まり。

 

波の絵・波の話

波の絵・波の話

 

  「女のいない男たち」まで読んで、ひとまず短篇集はおしまい。次はエッセイとかだけど年代順に読もうと思ったら「村上朝日堂」も「村上朝日堂の逆襲」も見当たらない。前者は文庫を後者は単行本を持っていたはずなんだけど。それで比較的古い「波の絵 波の話」を読んだ。これは文庫化されてないみたいなんだけど例によっておそらくブックオフで買った単行本を持っている。ただ文庫で持ってる「使いみちのない風景」となぜか(おそらく写真を撮ってるのが両方とも稲越功一さんという方だからだろう。)ずっと同じものだと思っていた。文庫化に当たっての改題というのもない訳じゃないから。ところが昨日ちょっと本腰を入れて本棚をひっくり返したら「使いみちのない風景」のペーパーバック版の単行本というのが出てきた。買った覚えがまったくないんだけど単行本が出てきた段階で「波の絵・・・」と「使いみち・・・」が違う本だと気づいた訳だ。それで「波の絵・・・」だけど古いアメリカの曲、ドアーズとかビーチボーイズとかの訳詞がいくつかとレイモンド・カーヴァーの短篇の翻訳が一篇、それに短篇のようなエッセイのような短い文章がいくつか収録されている。カーヴァーの短篇は他人の家の写真をポラロイドで撮ってそれをその家に住む人に売りつける義手の男の話でこれはどこかで読んだ覚えがある。でもその他は読んだ記憶がなかった。写真と文章は基本的にはそんなに関係ないと思う。写真は1975年頃から1983年頃の主にハワイやニューヨークなど海外の風景を撮ったもので今見るとなんとなく懐かしい気がする。

 アマゾンで探すと四千円近くから数万円の価格で手に入るみたいだけどよほどのマニアでなければ手は出さないだろうなあ。

「レキシントンの幽霊」と「神の子どもたちはみな踊る」。

 きれいなスカーレットの表紙を持つそう厚くないムック「村上春樹ブック」を持ってるんだけどこれは「文學界」の1991年4月臨時増刊ということなのでもう三十年近く前に出たものだ。本棚の見えるところにあるんだけど思うさま埃をかぶっていてちょっと手に取る気になれない。ただこれに収録された短篇にすごい違和感を持った記憶が今でも鮮明に残っていてそれは「レキシントンの幽霊」に収録されている「緑色の獣」と「氷男」だった。「氷男」は短篇集「めくらやなぎと眠る女」にも(バージョンは違うかも知れないが)再録されている。だから初出と「レキシントン・・・」と「めくらやなぎ・・・」で最低三回は読んでるはずだけど今回読み返しても違和感が拭えなかった。個人的に思うんだけどこの作品集はおおよそ二種類の作品群に分けられるんじゃないだろうか。ひとつは「沈黙」、「トニー滝谷」、「七番目の男」の系列。もうひとつは「緑色の獣」、「氷男」の系列。表題作と「めくらやなぎと、眠る女」はその中間項みたいに思える(これじゃあ二種類じゃなくて三種類だ。)。そしてそんな風に便宜的に区分けするとこの作品集がとてもバラエティーに富んだ逆に言うと全体としてはややまとまりを欠いたものに思えて来る。ただし作者は「あとがき」でこう言っているのだが。

***
(前略)
 書いているときは、とくに深く考えもせずに、書きたいことを書きたいように書いていただけなのだが、こうして年代順に並べてまとめて読んでみると、それなりに自分では「なるほど」と思うものはあった。ひとつの気持ちの流れの反映であったのだなと思った。(後略)
***

 でも前者の系列のお話はストーリーとしてわかりやすいし輪郭の整った読後感を与えてくれる。
 それから今回「神の子どもたちはみな踊る」には本当に深い感銘を受けた。これまで読み返した短篇集の中ではこれがいちばんいいんじゃないかと思うけど初めて読んだときにはそれに気づかなかったようだ。2000年の2月刊行だから僕は36歳、前年に結婚したばかりでまだブログは始めていなかった。だから感想は書いてない。二十年前の自分がこの本に関してどんな感想を書いたかちょっと興味はある。
 「女のいない男たち」の「まえがき」に「神の子どもたちはみな踊る」と「東京奇譚集」、それに「女のいない男たち」は収録作をまとめて書いたとある。当然それらの内容にはそれぞれまとまりがある。個人的には「レキシントン・・・」のような成り立ちの短篇集よりこちら側の方が好きだ。視点がそれほどぶれなくて済むので読みやすいということもあるしある種のテーマの連続なので印象が散漫にならないということもある。若い頃はそういうのは邪道みたいなものでどんな物語からも切り離して一作一作を単体として読めという風に思っていたけど今はそうは思わない。連作ということで全体の雰囲気がつくられているならそうしたものとして読んでいいと考えている。その方が味わいも濃くなる。
 どの一篇を読んでも結末できっちりと心を揺らされる。例外はない。いちばんいいと思ったのは「かえるくん、東京を救う」だ。片桐の孤独がラストシーンでもう一度あぶり出される。でもたとえそうであったとしても、彼はかえるくんに出会えて幸せだったのだ。
(後から読み終えた「東京奇譚集」の感想の方が先に書けてしまったので、昨日と今日で記事の順番が逆になりました。)

「東京奇譚集」。

 「東京奇譚集」は刊行されたときに読んでる。2005年9月のことで子供は四才になったばかり、まだ幼稚園には通っていず毎朝近くの公園に行ってはぴったり二時間遊ぶまで家に帰らなかった。親にとってこれは結構きつかった。週日は家人が土日と祝日は僕がそれにつき合った。幼稚園に入るまで子供をひとりにしたことはなく寝てるときを除けば家人か僕かその両方かが必ずそばについていた。だからあまりよそ様のことは言いたくないけど子供をひとりにしておく親の話をニュースなんかで聞くとなぜそんなことができるんだろうと不思議に思う。僕なら心配でいてもたってもいられないと思うんだけど。
 閑話休題、それから2009年に出た「めくらやなぎと眠る女」にも「東京奇譚集」の全編が収録されていたと思うのでそこでも読んでるはずだ。つまり最低二回は読んでることになる。でもこのブログを読み返すとなんか薄い感想しか書いてない。おもしろかったのはおもしろかったらしいんだけど。
 それが今回は一編目の「偶然の旅人」を読んで泣き二編目の「ハナレイ・ベイ」を読んでもっと泣いた。
 「偶然の旅人」で主人公が体験した不思議なこと、言わばシンクロニシティーはただひとつでそれは耳にほくろのあるふたりの女性とそのふたり共が乳がんだったという事実だ。主人公がゲイであることがそのふたりを傷つけることになる。でも例によって悪いのは誰でもない。主人公には主人公の切実さがあったし女性たちにもそれぞれの切実さがあった。そしてそのシンクロニシティーをきっかけにして大きな和解がもたらされる。僕の心を強く打ったのは主人公の抱えた切実さだった。彼は自分をゲイだと認めることによってやっと本来の自分になれた。それまでは本当につらかっただろうなと思うと涙が止まらなかった。
 「ハナレイ・ベイ」の主人公の女性は外からは本当にタフに見えるんじゃないかという気がするし実際あるところまでは相当タフなんだと思う。でももちろんその中にも悲しみはある。この作品で起こる不思議なこともたったひとつだ。でもそれが彼女の悲しみによりくっきりした形を与える。そしてそうした悲しみを抱えながらも人は生きて行かねばならない。ひたむきに、でもなんでもないことのように。最後の数行を読んで泣けて泣けて仕方なかった。
 三編目「どこであれそれが見つかりそうな場所で」。なんかレイモンド・カーヴァーっぽいタイトルに思うのは僕だけだろうか。
 これは前の二作とは明らかに趣を異にしている。テーマは「壁抜け」の一種と言っていいんじゃないかと思う。長編での「壁抜け」はどの場合も現象としてそう描かれるだけでその構造を客観的に跡づける視点というのはなかった。ここでの語り手「私」の存在感の不思議さは、読みようによっては「壁抜け」を専門にしかもボランティアで調査し「壁抜け」を実現させる「ドアだか、雨傘だか、ドーナッツだか、象さんだかのかたちをしたもの」(単行本p119からの引用)を探している人物という位置づけの不可解さから来ている。つまり彼が割と血まなこになって探しているのは「壁抜け」の痕跡でありなろうことならその痕跡をどんな手段でか再び活性化させ「壁抜け」を追体験したりもっと進んで常態化させたりしたい意図が隠されているように見える。そこでは「壁抜け」は既定のものであり既知のものであり存在するのが当たり前な大前提なのだ。でもそう考えるとこの作品は「壁抜け」外伝みたいな形にのみ許される楽しい思考実験のようにも思える。それは「壁抜け」の発案者にしかできない知的な遊びと取ってもいい気がする。そういうところが前の二編と全く異なった印象を与える根拠になっていると思う。もちろん「壁抜け」の全貌は未解明なままだけど。
 「日々移動する腎臓のかたちをした石」。ここには作者の短篇小説を書くときの作法のようなものがそうはっきりとではないけど伺える気がする。特に腎臓石が彼女に揺さぶりをかけてるんじゃないかというくだりは興味深く、ちょっと目が覚める思いがした。ラスト・シーンは作中作「日々移動する腎臓のかたちをした石」の主人公が何かから解放されることとその筆者が何かから解放されることとの両方を意味している。
 「品川猿」はひとりの女の子の自殺が主人公に及ぼした目に見えない影響を象徴的に「品川猿」という形に置き換えたものに見える。しかもその影響は彼女の無意識にある大きな傷をあぶり出すことになった。一見なんでもないような出来事の裏にかなり深刻ないきさつが隠されている、その物語のダイナミズムが魅力のように思われた。
 特に最初の三篇はこれまでより立体的に読めたような気がする。そのせいもあってか今までよりもずっと深く心に残る読後感だった。

ノートが逝ってしまう。

 本体とディスプレイがはずれそうになり本当に微妙な角度で開かなければ画面がホワイトアウトしてしまうノートパソコンをだましだまし使ってたんだけどある日作業中にプツンと電源が落ちそれきり何をしてもディスプレイに光が戻ることはなかった。いちばん火急だったのはメールソフトの確保でメモリースティックに何ヶ月前かにバックアップしたメールのデータは入っていたのでとにかくパソコン本体とずっと使ってるBecky!というメールソフトが手に入れば即日でも環境が復旧できる。うちには家人が使ってた(今も使えるけど画面に一部黒い筋の入ってしまってる)lenovoのでっかいノートと、最近家人が使い始めたコンパクトなヒューレット・パッカードのものと、子供が予備校のリモート授業を受講したりするのに使ってるこちらもコンパクトめなlemovoのノートの三台がある。(その他に電源の入らなくなったヒューレット・パッカードのデスクトップも家人のと僕のと合わせて二台ある。)順当なら家人の古い方のノートに白羽の矢を立てるところだけど書きかけの原稿とかアイディアとか没になったプロットとかが入ってるので夫といえども貸すのはやなんじゃないかなと遠慮してたら構わないから使ったらいいと言ってくれたのでそれをしばらく借りることにした。ちなみにヒューレット・パッカードのノートのいちばん安いのを速攻で発注したけど欠品中で納品予定も立たないとのことでそちらは気長に待っている。(後記 あまり時間がかかるので、一ヶ月半後にキャンセルしました。)

 塾で独自ドメインを取ってる上にヤフーのメールアドレスなんかもあってなんのかんので二十くらいメールアドレスを管理しているせいかBecky!のバックアップも200MBくらいある。ただこのソフトの優れたところは決まった場所にフォルダを置きさえすればアドレスからIDからパスワードから過去のメールから何から何まで一瞬で復元してくれるところだ。調べてみたら今年五月(逝ってしまったノートが本格的にやばくなって来た頃じゃないかと思う。)にバックアップしてあったのでこの三ヶ月くらいのメールは復旧できなかったがそれでもメールの環境は即日元に戻せた。あとの重要なファイルは大抵バックアップしてあるのでいいとしてウェブのIDとパスワードが一部わからなくなってしまった。たとえばこのはてなもそうだったけどこれはさっき復旧できた。その他塾のサイトに使ってるウェブサーバのログインとかブログに投稿するためのログインとかそういうのはまだこれからだ。もっとも、塾のブログの更新がしばらく止まろうが誰にも迷惑にはならない気もする。Becky!ATOKは家人も愛用してるのでそのまま使うことができる。経理ソフトも復旧したいけどこれは新しいノートが届いてからでも充分間に合うだろう。ただブラウザの「お気に入り」をバックアップするのを忘れていてこれが結構不便だ。まあでも諦めるべきところは諦めるしかない。
 今日は午前中が最後の夏期講習で午後は暇だったので昼寝した後教室にやって来てバックアップしていたファイルにいろいろ手を入れてすぐに使えるようにした。それで時間が余ったので以上書いてみた次第。

「回転木馬のデッド・ヒート」から「夜のくもざる」まで。

パン屋再襲撃 (文春文庫)

 長編に比べると短編集は短い時間で読めるような気がする。
 「回転木馬のデッド・ヒート」が出たのは1985年で僕は翌年その単行本を買った。21歳だった。文庫版が出ていればそちらを買ったはずだけどまだ出てなかったんだと思う。ちなみにこの本は文庫版も持っている。随分何度も読み返した気がするけど例によって気に入った作品だけを何度も読んでたに過ぎないようだ。よく覚えているのは「レーダーホーゼン」と「嘔吐1979」だけであとはところどころ印象的な表現を覚えてるもののストーリーはまるで忘れてる作品が多かった。確かにちょっと不思議な短編が集めてあるけど後年の長編のぶっ飛び方に比べれば随分ささやかなものじゃないかと思う。ただし方向性はやはりファンタジー寄りと言っていい。一般的なリアリズムから少しずつそちらの方へ近づいて行く過程のように見える。もちろん作者の目指すものがその先にあったということだろう。
 今日取り上げる中では最も気に入ってる「パン屋再襲撃」。1986 年刊行でこれは出たばかりのとき単行本で買った。22歳。今回は単行本が見つからなかったので文庫本で読んだ。これはどの作品も比較的よく覚えている。表題作は船に乗って海底火山をのぞき込むイメージが当時よくわからなかった。その頃はいろいろな本を読んで実にいろいろなことがよくわからなかった。今から思うと、わかる、ということをきまじめに厳密に受け取りすぎていたように思う。僕たちは買い換えたばかりの端末のマニュアルを理解するように小説を理解する必要はないんじゃないかと今なら思う。もっと離れた位置から俯瞰で理解する仕方もある気がする。そしてそういう風に読んでみると海底火山の暗喩は激しい空腹を表すものとして割にすんなり腑に落ちる。意味ではなくイメージとして。「象の消滅」も好きな作品のひとつだ。アメリカで最初に出た短編アンソロジーの表題作というのもうなずける。お話としてとても普遍的に誰にでも通じるような気がする。そしていちばん気に入ってる「ファミリー・アフェア」。ここでは鼠三部作である程度確立されていた「僕」の像が高度資本主義的、バブル的な方向にずらされている。職業も広告関係だしいろんな女の子と寝てまわっているし言動もどこか軽い。でもだからこそ彼の負う哀しみが逆にくっきりとした形をとっているように感じられる。そこがとても好きなのだと思う。「双子と沈んだ大陸」の主人公が感じる疎外感もいいけどここに笠原メイが出て来ることは忘れていた。逆に後に「ねじまき鳥クロニクル」の冒頭部分になる「ねじまき鳥と火曜日の女たち」に出て来る少女はまだ笠原メイではない。ちょっと不思議だ。
 サイト「村上春樹研究所」によると次に古い短編集は「ランゲルハンス島の午後」ということになっているけどこれはエッセイ集と言った方が近いかも知れない。刊行は1986年。ずっと文庫版で読んできたけどいつだったか単行本をブックオフで見つけてこれは千円近くしたと思うけど買った。今回は単行本で読んだ。「みみずくは黄昏に飛びたつ」で川上未映子さんが表題作について触れてるけど確かにその一編はとてもすてきだと思う。
 次が「TVピープル」で1990年に出ている。これもすぐに買った。26歳で数ヶ月後に僕は大学を卒業して就職することになる。「加納クレタ」や「眠り」のように女性の一人称が初めて現れて若干の違和感と共に作風が変わって行くのが感じられた。今読み返すと「眠り」はむしろ自己が現実から遊離して行く過程の方がより際立った特徴のように思われる。ただ彼女は現実から遊離することを通して失われていた自己を回復しているのだとも言える。それが正しいことかどうかはさておき。それとあまり覚えていなかったんだけど「我らの時代のフォークロア ―高度資本主義前史」がとてもよかった。かつてこういう倫理観はあったんだろうしそれに振り回される形で小さな不幸がたくさん生まれたんだろうと思う。でも結局誰も責めることはできない。そういうことがテーマのような気がした。
 今日最後に触れるのは「夜のくもざる」。刊行は1995年、僕は31歳で前年の暮れに右膝に怪我をしてこの年の1月17日阪神淡路大震災の起きた日に手術を受け地下鉄サリン事件を受けて上九一色村サティアンに警視庁の捜査が入った3月22日に退院してこの本が出たときは自宅療養していた。随分前に一時期「メンズクラブ」を買ってたことがありそのときJ・プレスの広告に村上さんの短い文章が載ってたのを何度か読んだ。それがとても気に入って自分でも似たような短い文章を書いて当時つき合ってた女の子にプレゼントしたりしていた。これがいつかまとめて読めたらいいなと思っていたけどそれがこの本の前半に収められた「超短篇小説」の数々だった。でもそんなこと全然忘れてたし今回も全部読み終えて作者たちのあとがきを読んで初めてそうだったことを思い出した。こうなるともう自分の記憶なんてまるで当てにならないと諦めるしかない。とりあえず次から次へと楽しく読んだ。
 という訳でこの前読んだばかりの「一人称単数」を除くと残った短編集は四冊だけになった。その後「象の消滅」と「めくらやなぎと眠る女」も読もうかどうか迷っている。バージョン違いが読めるとは言えどちらも随分ボリュームがあるしね。

対照的な二冊。

中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)

 うちにある中公文庫版の「中国行きのスロウ・ボート」には確か今はなくなってしまったブックセンター荻窪の四つ葉のクローバーを模したような柄のカバーが掛かっている。住所も電話番号も記載されているけど電話番号は市外局番抜きで今の八桁ではなく七桁だ。二十代の初めにその書店を日常的に利用していた。カバーはページの折り返しのところがほとんどと背表紙のところが一部すり切れてなくなっている。同じカバーは講談社文庫版の「風の歌を聴け」にも「1973年のピンボール」にも「羊をめぐる冒険」にもかかっている。でもいちばん傷みが激しいのはこの「中国行きのスロウ・ボート」のカバーだ。おまけにページも何枚かはがれ落ちてしまって本に挟み込まれている。
 僕はこの本がとても好きで数え切れないほど繰り返し読んだ覚えがある。もちろん最近の話ではない。今の年の半分以下の頃だ。でも三十代のときにも四十代のときにも五十代になってからでさえ折に触れて読み返したんじゃないかと思う。それほどの頻度じゃなくてもごくたまには。だからかなり細部まで覚えてる作品もある。でも今回通読してみて気づいたのは気に入った作品とそうでもない作品が割とはっきりしてるということだった。気づいた、と言うよりそのことを思い出したと言う方が正確かも知れない。つまり表題作と「午後の最後の芝生」、「土の中の彼女の小さな犬」(と入力したら、ATOKに「の」が多すぎると警告された。でもこれ以外考えられないタイトルだと思う。)、「シドニーのグリーン・ストリート」はものすごく何度も読んでるけどその他は比較的そうでもないということだ。この前「みみずくは黄昏に飛び立つ」を読んでたら「午後の最後の芝生」は読み返せないという作者の発言に出くわしたけどそれは彼女、もしくは妻が自分を捨てて他の男のもとへ赴くという何度も繰り返されているテーマの処理がこの作品ではうまく行ってないということなんじゃないかと個人的には思う。初めて読んだときにもなんか不自然だと感じたし今回読んでもそうだった。でも作品としてはとても気に入ってる。表題作は中国人にまつわる三つのエピソードがどれもとても深く心を打つ。ただ随分前にも一度書いたけど終わりはちょっとセンチメンタル過ぎるような気がする。短編集「象の消滅」の日本版に収録された別バージョンをいつだか読んだけどそちらではラストはかなり刈り込まれていてやっぱりなと思った記憶がある。でも作品としてはとても気に入っている。要するにこの短編集はいくつか問題があるように思われるけどそれでも(それゆえに?)とても気に入ってるということになるんじゃないかと思う。「シドニーのグリーン・ストリート」もある意味でチャンドラーに対するオマージュと取れる気がすることも前に一度触れた。
 これに対して「蛍・納屋を焼く・その他の短編」は表題作の二編以外はあまり読んだ記憶がない。まったくないという訳じゃないけど「中国行き・・・」に比べるとずっと存在感が薄い。それはおそらく単行本しか持っていないからじゃないかと思う。若い頃は新刊が出るととりあえず買って読み何年か後に文庫版が出るとそれも買ってその後読み返すのは主に文庫版という読み方をしていた。例外もないではないけどまあ大体そういうパターンだった。でもなぜか「蛍・・・」の文庫版は持っていずそれで読み返す機会がとても少なかったと思われる。ちなみに「踊る小人」は「象の消滅」日本版に、「めくらやなぎと眠る女」は前掲書第二弾に当たる「めくらやなぎと眠る女」日本版にこちらは表題作として収録されていて(ただし短編のタイトルは「めくらやなぎと、眠る女」になっている。)どちらもそこで再び読んでるはずなのにそれでも印象が薄い。ただ「あとがき」にある作者の「理由はうまく言えないけれど、小説を書くことはとても好きです。」はこのまま丸暗記したみたいにはっきり覚えている。その頃はまだ自分も小説を書きたいと思っていたからだと思う。
 尚、前回のエントリで触れた「スパゲティーの年に」の別バージョンは「めくらやなぎ・・・」に収録されてました。

単行本と文庫本。

 夢で会いましょう (1981年)

カンガルー日和 (1983年)

 

 こういうことを書き始めるとマニアっぽくてやなんだけど単行本と文庫本でテキストが異なるという話を聞くとなんとなく気になる。さらに村上春樹さんの場合「全作品」に収録される際にも手を入れられているという話なのでそれもすごく気になるけど正直そこまでは手が回らない。すでに持ってる作品を買い直すにしては値段だって安くない。ただ文庫本で初めて読んだ本の単行本がブックオフなどで安く手に入る場合はこまめに買いそろえている(ブックオフ・オンラインを利用すればもっと効率的に集まるかも知れないけど今のところそれはやってない。けどそのうち始めるかも知れない。)。という訳で今回触れる糸井重里さんとの共著「夢で会いましょう」も「カンガルー日和」も単行本を持っている。どちらも百円か二百円かで手に入れた。
 「夢で会いましょう」の単行本版と文庫版を見比べると後者には村上さんの書かれた「本文をお読みになる前に」と糸井さんの「後書きにかえて」が追加されていることがわかる。また村上さんの十二編が削除され新たに十二編が追加されたと凡例にあり削除されたタイトルはわからないけど追加されたタイトルは記載がある。だから単行本を読んだ後に文庫版で追加された十二編を読めばおそらく全編が読めることになると思う。実はこの短編集はあまり読み返した記憶がない。二度か三度かは読んでると思うけど糸井さんの文体と村上さんの文体が違いすぎて一編一編こちらの読み方を調整するのが結構大変だからだと思う。ただ村上さんの「パン」は短編「パン屋再襲撃」の前日談で個人的に「パン屋再襲撃」が大好きなのでそういう意味でも楽しめる。
 「カンガルー日和」の単行本は箱入りのソフトカバーで本体には半透明のカバーがかかっている。買ってからわかったんだけどこれは初版だった。佐々木マキさんの表紙の絵が文庫版とは異なっている。また本の中に収録されている佐々木マキさんの絵(小説とはおそらく無関係だと思うので挿絵という訳ではないようだ。)は配置が結構違う。またほぼ正方形の判型なので文庫版と比べると随分読み心地が異なる。それしか読んだことがなければ(個人的には三十年くらいは文庫版しか読んだことがなかった。)全然違和感はないけれど読み比べてみると文庫版は字が小さくて単行本にあるなんかこうのんびりした感じが失われていると言えるかも知れない。
 お話はどれもとてもおしゃれで文体もすごくかっこいい。若い頃はこの気の利いた文体が心の底から好きだった。ただ今回読んでみて改めて気づいたこともあった。まず「5月の海岸線」での語り手の怒りはかなりそのまま作者自身の怒りのように思われたことだ。これは「羊をめぐる冒険」にも引き継がれる(時系列に矛盾があるなら「羊をめぐる冒険」を引き継ぐ)怒りだ。それから「サウスベイ・ストラット」はレイモンド・チャンドラーフィリップ・マーロウへのオマージュだということ。村上さんのチャンドラーの翻訳を読む前にはこれがそういう作品だということに気づけなかった。「鏡」もすばらしいし「とんがり焼きの盛衰」の揶揄も楽しい。でもいちばん好きなのは「スパゲティーの年に」だ。若い頃もそうだったし今でも変わらない。ただこの作品の別バージョンをどこかで読んだ覚えがあるんだけどあれはいつのことでどの本だったんだろう?

デウス・エクス・マキナとしての「壁抜け」。

 「ノルウェイの森」で主人公のワタナベは緑の父親の病床でエウリピデスデウス・エクス・マキナについて話す。状況がにっちもさっちも行かなくなるとデウス・エクス・マキナという神が登場して交通整理をするようにお前はこうしろ、お前はああしろという指示を出しすべてを解決すると。すると村上さんの長編での「壁抜け」は多くの場合このデウス・エクス・マキナに当たるんじゃないかという気がしてくる。事態が錯綜してくると最終的には「壁抜け」をくぐることによってしか現状は打開できない。「ねじまき鳥クロニクル」にしても「1Q84」にしてもこの「騎士団長殺し」にしても、「壁抜け」をくぐることによって事態が好転する展開になっている。だからエウリピデスの評価がこのデウス・エクス・マキナの解釈次第だというワタナベの言に従えば村上春樹の長編の評価も「壁抜け」をどう捉えるかによると言っていい気がする。つまり見方によっては「壁抜け」は物語の展開として安易なのだと言って言えなくはない。ただそれでは誰にでも「壁抜け」が描けるかと言えばそれはどうかなという気もする。たとえば「騎士団長殺し」で言えば登場人物たちは物語の最後に至ってもその多くが謎をはらんだままだ。雨田具彦、免色渉、ユズ、コミ、秋川まりえ、白いスバル・フォレスターの男、その男がいた町で主人公と一夜を共にした女、それからもちろん騎士団長と「顔なが」、顔のない男とドンナ・アンナ。彼女ら、彼らは謎をはらんだまま最後まで独特の存在感を放っている。そしてそのそれぞれの存在感は主人公の「壁抜け」に直接、間接に関わっているように思われる。それら登場人物たちと「壁抜け」の間にある関わりの複雑さ。それがずっしりとした重厚感となってまた物語の奥行きの深さとなってこの作品の読後感をつくり出している。あまりにも多くの謎が解けないまま残されている。それが作品を現実の方に開いているのかも知れないし同時に現実から閉ざしているのかも知れない。どちらにしてもそれらの謎を解くためにまたいつかこの作品を読み返すだろう。もちろんそう簡単に解けるとは思っていないけど。
 短編集に取りかかる前に「みみずくは黄昏に飛び立つ」を先に読もうと思う。

折れ目が気になる。

 基本的に図書館の本は読まないんだけど今回は絶対持ってるのにどこにあるかわからないということで買い直す訳にも行かず「騎士団長殺し」の第1部を図書館で借りて読んだ。するとあちこちにページが折れてるところが見つかった。別に本をすごく大事にしてる訳でもないんだけど(むしろ必要ならドッグイヤーする。自分の本であれば。)端っこが三角に折れているのはページとしての正しいあり方ではない気がする。それでこまめに直しながら読んだ。少し前に「1Q84」を読み直したときも割に細かくページが折れていた。どうしてだろうと考えて前の会社で四、五人の社員に貸したことを思い出した。今回読み返した十数冊の本でページが折れてるのが見つかったのは「1Q84」だけなので貸した誰かが折り曲げたまま返したんだろうと思う。別にそれがいやという訳でもなくて全部元通りに直したのでそれはそれで構わない。ただ人から借りた本をそういう風にして返す人もいるんだなと思うだけだ。それで思い出したんだけど同じラインのお話で塾ではよく傘を生徒さんに貸すんだけどそれを乾かしてから返すおうちというのはほとんどない。平気で濡れたままで返してくる。個人的にはその神経がわからない。貸したのと明らかに異なる(でも透明なビニール傘というところだけ共通している)古くて汚い傘を返されたことが一度あったけどそこのおうちは普段から非常識なところが散見されたのでまあそういうこともあるかと思った。貸す方が悪い。でも僕なら必ず乾かしてから丁寧に巻き直して返すけどね。

見つからない。

 「騎士団長殺し」の第1部がどこへ行ったか見つからない。ウェブで調べるといちばん近い区立図書館に借りられずにあることがわかったので借りて来た。村上さんの長編はこれで全部読み(返し)終わる。次は短編集でこれもすごく楽しみ。ただ短編集は感想が書きにくいというのはある。

リモート懐妊。

 未読の方にはネタバレになるのでお気をつけ下さい。
 「1Q84」で天吾はふかえりと交わることによって遠隔地にいる青豆を懐妊させている。これを「壁抜け」の一種と考えることもできるかも知れない。ただそこは空に月がふたつある「空気さなぎ」≒1Q84年の世界なので昏睡状態にある元NHKの受信料集金係が現実のドアを執拗に叩いて支払いを迫ったりといった超常現象もあり、そんなリモート懐妊も多少は許容されるかなといった雰囲気もないではない。青豆はお腹の子の父親が天吾であることを悟りどこまでもその子を守り抜くことを決心する。青豆にとって、また天吾にとってもこの懐妊は善き懐妊だった。ところがこのリモート懐妊は「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」でも現れる。そしてこの場合懐妊したシロは主人公のつくるから強制的に性交させられたと思い込んでいる。このためアオ、アカ、シロ、クロ、つくるの、高校時代からそれまで数年にわたって奇跡的に仲のよかった五人グループから何も知らされないままつくるは拒絶される。このことがつくるに大きな心の傷を与えそれが物語の発端になる。しかしシロのつくるに対する証言をつくる自身が知るのはそれから十六年後だ。そしてそれを聞かされてももちろん彼には身に覚えがない。ただグループから排除された後の十六年の間につくるはシロと性交する夢を何度も見ている。従って夢を介しつくるは時系列に逆らってシロを懐妊させたのかも知れないという可能性が出て来る。そしてそれは悪しき懐妊だった。青豆と天吾の場合とは正反対に。でも1Q84年ならざる世界でそんなことは可能なのか。
 さらにこのリモート懐妊は次の「騎士団長殺し」でも繰り返されることになる。まだ読み返してないので少し前の記憶に頼るとこの場合は善き懐妊に戻っている。いずれにせよ長編三作連続でこの主題は繰り返されどの作品においてもお話の上で重要な位置を占めている。そういう意味でもリモート懐妊は「壁抜け」の変種と言っていいように思われる。これをどう解釈すべきなのか。
 それをとても的確に言い表したくだりが「色彩・・・」の中にある。

***
 それからつくるはもう一度眠りに落ちたのだろう。やがて彼は夢の中に目を覚ました。いや、正確にはそれを夢と呼ぶことはできないかもしれない。そこにあるのは、すべての夢の特質を具えた現実だった。それは特殊な時刻に、特殊な場所に解き放たれた想像力だけが立ち上げることのできる、異なった現実の相だった。
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」p116
***

 こう言われるとそれは作者の多くの作品に共通して登場する「相」を指しているように思われる。それは「羊をめぐる冒険」であり、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」であり、「ねじまき鳥クロニクル」であり「海辺のカフカ」でありもちろん「1Q84」であるように思われる。あるいは「一人称単数」と言ってもいい。ちなみにこの後つくるはシロとクロのふたりと性行為を行う夢を見ている。同じような表現はその後にも登場する。

***
(前略)まるで部屋そのものがひとつの意思を持っているかのようだ。その中にいると、いったい何が真実で何が真実でないのか、彼(引用者注、つくるのこと)には次第に判断がつなかくなってきた。ひとつの真実の相にあっては、彼はシロに手を触れてもいない。しかしもうひとつの真実の中では、彼は卑劣に彼女を犯している。自分が今いったいどちらの相に入り込んでいるのか、考えれば考えるほど、つくるにはわからなくなってくる。
(後略)
「同」p229
***

 それは真実か夢か、とか、真実か想像か、とか、真実か可能性か、とかいう二項対立ではない。ひとつの真実の相かもうひとつの真実の相か、という対立だ。あるいはそれは対立でさえないのかも知れない。ふたつの異なったパラレルに並ぶ等価値の真実なのかも知れない。そう考えるときこの作者の作品の核心にとても近づいたような気が個人的には強くする。乱暴に言ってしまえばこの現実は「壁抜け」のできる現実かできない現実かのふたつなのだ。そして作者は常に「壁抜け」のできる現実について物語っている。個人的には作者の作風を一貫してファンタジックだと考えてきたけどおそらくその根拠はここにある。でもそれは作品内ではファンタジーではない。それはもうひとつの現実と見なされている。
 巡礼の後でもつくるは以前の自分をそれほど乗り越えていないように見える。確かに謎は解けたが彼自身救われてはいないように見える。もしほんとに救われていたら彼は沙羅を信じることができたに違いない。彼女が彼にとって唯一の導き手だったのだから。

共通する状況のようなもの。

 短編集としてはこのひとつ前の作品に当たる「女のいない男たち」で各編に共通する状況のようなものを取り出すとするならそれは女を共有する男たちの話だということになると思う。同様に今回の「一人称単数」という言葉が短編集の中の一編のタイトル以上に一冊を通して共通するものを担っているとすると(担ってるように思われるんだけど。)それは私小説のような短編ということになるんじゃないかと思う。もっとも収録された八編の語り手がすべて一人称単数だからと言って即座にそれらを私小説っぽいと評すのは誤りだ。それなら作者の作品の大半が私小説のような作品ということになってしまう。そうではなくて各編の語り手が作者自身と等身大であるような印象がつくり出されているところに私小説っぽさの根拠がある。特に「ヤクルト・スワローズ詩集」というファンには耳慣れたタイトルを持つ一編はほとんどエッセイと見分けがつかず一読してどこがフィクションなのかわからない。そこには語り手が「風の歌を聴け」で小説家になったことが書かれてあり、「羊をめぐる冒険」を書き上げる前日談が書かれている。父親とのエピソードもこの前の「猫を捨てる」とリンクしてるように読める。するとそれを書き記している「僕」は限りなく作者自身に重なって見えてくる。お話としてはそうしたノンフィクションに見えるものから明らかにフィクションとしか思えないものまでグラデーションはある。でも文体的な特徴をつかみ出すならどれも語り手と作者がとても近いということになる。それがこれらの短編を書くときの作者のルールだったように思われる。
 でもだからなんなんだと言われるとそんな風に書いてみたかったのかなという以上の推測はできない。一人称単数を語り手に据えた文体の可能性を再び試してみたかったとでも言えばいいか。個人的にはそんな推測でもわりに納得できる気がする。でも矛盾するようだけどたとえば「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」のエンディングなどを読むと明らかな架空の世界の内部に新たな現実の層が現れたみたいに見える「1Q84」を読むときのような不思議な気持ちになる。それがどんなエンディングかはどうぞご自分の目でお確かめ下さい。

ちょっと一休み。

 一昨日の夜「1Q84」を読み終えて、すぐに次の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読み始めてしまうと、村上春樹さんの新刊「一人称単数」が出る今日までにそれを読み終えられそうになかったので昨日は読書は一休みにした。「色彩・・・」を読みかけで新刊を読み始めることは避けたかった。本当は昨日までに「色彩・・・」と次の「騎士団長殺し」まで読み終えていたら理想的だったんだけどさすがにそれは無理だった。これでも一応トップスピードでこれまで走り抜けて来たので。ところでアマゾンで調べるとジョン・アップダイクにも「一人称単数」という作品があることがわかる。アップダイクの作品は読んだことないけど。

「気がついたとき、誰かが隣にいて彼の右手を握っていた。」

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2009/05/29
  • メディア: 単行本
 
1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2009/05/29
  • メディア: 単行本
 
1Q84 BOOK 3

1Q84 BOOK 3

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2010/04/16
  • メディア: ハードカバー
 

  最近は生徒さんが問題を解いている間も本を開いてるんだけど「1Q84 BOOK3」もだいぶ終わりに近づいたところにあるこの一節を読んだときには思わずぐっと来てすぐに読むのをやめた。生徒さんを前にして涙ながらに答え合わせをする訳にも行かない。初めて読んだときには「BOOK 3」は気に入らなかったみたいで割に否定的な感想を書いてるけどそれは「ねじまき鳥クロニクル」と全く同じ事情で「BOOK 1」、「BOOK 2」が同時に出て「BOOK 3」だけ翌年出たとき前の二冊を読み返してから読めばよかったのにそれを怠ったからだと思える。つまり三冊立て続けに読むのは今回が初めてでそれは貴重な体験だったという気がする。ちなみに当時「BOOK 4」が出るんじゃないかという噂があったような記憶がある。でもよく考えてみれば1Q84年の12月で「BOOK 3」が終わっているので「BOOK 4」が出るとするとそれは「1Q84」年ではなく翌「1Q85」年のお話になってしまう。確かに「BOOK 3」は暗示的と言うか示唆的と言うか啓示的と言うかもうひとつの大きな謎をはらんだまま終わっているのでさらなる続きを期待したくなる気持ちもわからないでもないけどやはりひとつの大きく確かな存在感を持つエンディングであることははっきりしてるように思われる。
 今回「BOOK 1」を読んで青豆が裏の仕事(とでも呼べばいいか。)を始める動機が若干弱いんじゃないかという気がした。また独自にその方法を確立したというお話も信じるに足るかやや怪しい。確かに彼女は「人体の神殿」に関して一流の知識を持っていたのかも知れないけどこの方法の確立が論理的に可能なら現実にそれを行える人が実在してもおかしくない。でもそれはありえそうもない事態だ。もうひとつ「老婦人」がDVから逃げ出す女性たちをかくまう「セーフハウス」を設置しているところまではいいとしても青豆に裏の仕事を依頼するのはちょっと行き過ぎなんじゃないかという気がする。「老婦人」自身もそう感じてる節があってこれは正しい行いなのだということを自分に言い聞かせるように青豆に対して繰り返し述べている。
 でも。本当に微妙なのでできれば触れずに済ましてしまいたいんだけどおそらくそれは避けて通れない問題だ。それはつまりDV(この場合は男性から女性に対しての。)に関する男女間での意識の隔たりということだ。たとえば自分を例に取ると結婚して二十年ちょっと家人に手を上げたことは一度も無かったしこれからも無いと思われる。自分なりに心の傷はいろいろ持ってる気がするがそういう発現の仕方をする傷は無さそうだからだ。するとそこで自分にとってのDVの問題は終わってしまう。DVはDVをふるう男性の問題であって自分とは関係が無いという理由で。でも女性の立場からするとそれは誰にでも起こりうる普遍的な問題だと見なすことができうる。家人にも確かめたがたまたま自分がDVにさらされない環境にいるからと言ってその問題を看過することはできないそうだ。それは自分のようなうかつな男性には想像もできないほど大きな痛みだと見なすべきだ。言い換えればその痛みは痛みを与えた男性を葬り去ってしまえというところまでたどり着くほど大きなものかも知れないのだ。その考えを受け容れることはおそらくたいていの男性にとっては自己否定の作動を必要とするだろう。しかしその自己否定を契機にすれば青豆も「老婦人」も決してそれほど不自然な姿には見えなくなる気がする。作者はそこまでをリアルに想像していると見なし評価した方がいい気がする。以上は「BOOK 1」の冒頭のお話で全体からすると小さな部分に過ぎないが全体像のリアリティーにとってはとても重要な根拠をなしている。ここが脆弱なら全体も脆弱になる。もしかしたらこの問題の解釈次第で作品全体の評価も違ってくるかも知れない。
 後は「1Q84」の作中作として「空気さなぎ」があるのか「空気さなぎ」の作中作として「1Q84」があるのか区別が付かないような、作中の現実と作中作の現実とが入り交じる展開になる。いずれにせよ今我々が生きている現実(それすら確かなものであるかどうか疑わしく思わせるんだけどとりあえずそういうものが存在するとして。)とは異なった位相の中空に浮き上がったような物語の現実が進んで行くのはこの作者のいつもの作品と同じだ。サスペンスの要素も多く物語の動きが速いところでは息もつかせぬ展開でおもしろい。特に「BOOK 3」で牛河のパートが加わるとその感が強くなる。個人的には今回、この牛河という薄気味悪い登場人物にかなり感情移入した。普通の幸福を普通と思えないとても気の毒な人物だと思う。
 この前に「アフターダーク」も読んだ。初めて読んだときにも思ったけどこれはほんとに異質な作品だ。「1Q84」に比べると「アフターダーク」や「海辺のカフカ」の方が難解な気がする。でもこれまででいちばんよかったのは「海辺のカフカ」ということになる。